2015.10.21

「聞く耳をもっていないのに、質問攻め」は勘弁してください

1.映画のストーリーや配役などで、何かと「なんたら差別だ」という声が沸き起こる。まあ、そういう見方もあるよね~ くらいに思うこともあるけれど、以前、日本の少女マンガアニメ『オオカミ少女と黒王子』が、日本の放送とほぼ同時に英語字幕付きでアメリカで公式配信されたときにも… 

2.作品を知っている人なら容易に予想できるように、「なんて酷い性差別アニメだ!」と激怒する人がチラホラ出てきた。これは無理も無い。主人公は、見栄っ張りのせいで嘘をついてしまった女の子。そして、嘘を隠し通すため、知り合いでもなんでない男子に頼ったら…

3.彼は外面は美形で性格もいい好男子だけど、ごく少数の「こころを許した相手にだけ」は、とっても自分勝手で偉そうに振る舞う甘えん坊。というありがちネタ。彼女に対する態度がかなり悪いので、海外のアニメ感想掲示板がちょっとした騒ぎになったと。

4.普通は、作品が気に食わなければ、さっさと見るのをやめるものだし、実際、初期段階で怒った人は見るのをやめ掲示板にも来なくなった。それでいいのです。見たくないものを無理に見る必要なんてない。おもしろいと思う人だけが見ればいい。ところが…

5.なぜか、毎回強烈な文句を言いながら見ている女性がいて、しかも、この人、「こんなアニメを喜んで見る女子も頭がおかしい」と、作品だけでなく視聴者まで攻撃するから、えらいこっちゃ~ ご本人の友人知人にも、作品のファンがいるらしく、その点に関しても非常にご立腹のようす。

6.彼女いわく、「普段DVやストーキングで苦しんでいる私の友人の中にさえ、なぜか、このアニメに登場する『黒王子』のファンがいて「あんな恋をしてみたい」とか言う。全くわけがわからない。誰か説明してよ」っと。でもねぇ~

7.いくらなんでも、「会ったこともないアナタの、会ったこともないお友達」の気持ちの解説を、どこの誰ができるというの? 放っておけば良かったけど、少しなだめようとしたら、エライ目に遭いました。「説明しろ、説明しろ、説明しろ」の連発。しかしながら、

8.いくら説明しても、元々聞く耳を持ってなかったんですよ、彼女は。最初から「このアニメも、このアニメを好んでいる視聴者もケシカラン」という結論があって、『説明しろ』の連呼は、「こういう点が好まれているんですよ」という説明を封殺する手段。参りました~

9.さて、私にとって最も不思議だったのは、「彼女は最終話まで全部見た。」と、いうこと。彼女が何を考えて最後まで視聴したのか、知りたいような、知らないほうが身のためのような・・・ あはは。(以上で、本件は終わり)

2015.01.08

英語吹き替え版アニメを見て改めて気がついた、セリフと演技の重要さ

正月休み中になんとなくインターネットで見つけたアニメ、『デート・ア・ライブ』を見ていて、日本語のセリフ、複数の英語字幕、そして公式に発売されている北米版英語吹き替えの音声も聞く機会があり、ちょっと気になることがあったので、先週、北米版のBlu-ray Discをアマゾンに注文し、あちこちを聴き比べていて気がついたこと。

海外の掲示板で時崎狂三の人気がかなり高いこと、これはまあわかるとして、一方、なぜか鳶一折紙を嫌っている視聴者が多いような印象を受けて不思議だったのだけれど、英語吹き替えの音声を聞いて、「なるほど」と納得した。
鳶一折紙は、通常、感情を押し殺した振る舞いをしているキャラクターで、英語吹き替え版でも一応はそうなのだが、日本語版に比べると、はっきり嫉妬深いニュアンスがある。そもそものストーリーの流れとして、主人公は彼女に付き合ってくれと告白しているのだから、設定上は確かに『本妻』の立場にあるのだが、作中での扱いは主要キャラではあるものの、ヒロインではなくサブキャラクターである。そして、感情をほとんど出さないで淡々としゃべっている日本語版は、ある種の儚さと健気さがあるのに対し、英語版では主人公が自分以外の女性についての話をするとき、彼女のセリフは、明らかに不快感を帯びてくるのだ。それでいて、言葉の表現としてはこの種の無口キャラの一般的傾向として婉曲的なので、「当てこすりの嫌味を言って、主人公をあやつろうとしている」というような印象がなくもない。日本語版では、無口で世間の常識からずれている不思議な天才という、ありがちな属性だし、英語版でもキャラクーの性格分類をするとしたら、そのカテゴリーに入るが、しかし、天然ボケに雰囲気の日本語版に比べると 英語版は多少なりとも manipulative な印象が強めということ。
セリフの文面を見るだけなら、日本語でも英語でも内容に大差はない。そして、声の演技で表現されている性格が 微妙に違う。その微妙な違いのため、他のキャラクターの性格とのバランス関係としての立ち位置が、わずかではあるが日本語版に比べて利己的かつ非友好的で、おまけに支配欲もあって、意図的に主人公を翻弄しようとしていると思えないでもないという「嫌な女」という面が少し出ている。

他の登場人物の性格も微妙に違う。ストーリーを理解しやすくするために日本語版と違うセリフになっている部分があるというせいもあるのだが、セリフがほぼ同じ内容のところでも性格が違って見える。

そのニュアンスの差は、文面ではなく声に込められて伝わってくる感情によるものなので、誤訳というわけではなく、キャラ作りの演技が少し違うという点から生じていて、なるほど、これだと嫌な女性だと思う視聴者いても不思議はないという気がした。
それはそれで、英語版の各登場人物はこうなんだなと納得しているので、翻訳や役作りに文句をつけようというわけではないのだが、今さらながらの話だが、演技とキャラクター作りの設定って大事だなとあらためて思ったところだ。

他のアニメでも英語吹き替え版を買って、登場人物の雰囲気の差をくらべてみようかな。といっても、ディスクはそんなに安くないから、いくつもは買えないけれど。

2015.01.01

『英語で考えよ』というが、そもそも『日本語』で考えているのか?

初心者向けに書かれた英語学習書には、ときどき、「英語で考えるようになること」と、いうような提案・忠告が書いてある。言わんとすることは十分分かるのだが、果たして、日本人は日本語でモノを考えているのだろうか?

日本語を全く使っていないとは言わないが、頭の中で物事を考えているとき、文章の形にはなっていないしなるはずもない。もともと人間の脳は、断片的な事柄を同時に大量に処理するようにできていて、文章のように一本の道になった大きなものを時間をかけて処理するというのは後天的な訓練によって得た能力である。

頭の中に散在している断片的なアイデアを日本語の一本の文章に組み立てるという作業をするためには、まずは、「断片的なアイデア」を思い浮かべなければならない。実際には、文章をまとめている最中に新しいアイデアを思いついたり、アイデアの間違いに気がついたりもするので、必ずしも全部のアイデアが先にそろっているわけではないが、それにしても、まあ、どちらが先かといえばアイデアのほうのはずだ。

そして、頭の中に最初にできる断片的なアイデアは、具体的な日本語の文章や単語というよりは、もっと直感的で抽象的なものである。もちろん英語でもないし、フランス語でもない。図形だったり色彩だったり過去の感情の回想だったりする。

考えているだけなら、日本語はあまり使っていないのではないだろうか? 頭の中を同時に漂っている複数の考えに強制的に順番を与え一本の文章に組み立てるという作業をするときになって初めて、日本語という言語のルールが積極的に活用されることになるような気がする。

もちろん、文章を組み立てるという作業もまた、考えをまとめるために必要なことなのだから、「日本人は日本語で考えてる」というのは、確かにその通りだとは思う。しかし、考えるという行為をもっと分解してみれば、私には「日本語でも英語でもない脳内の固有の表現形式として、すでに頭の中にかなり材料がそろっていて、それを外部に持ち出すときに日本語を使って持ち出し可能な形に組み立てる」というべきだと思えてならない。

そういうことであるなら、俗にいう「英語で考える」というのも、「日本語でも英語でもない脳内の固有の表現形式として、すでに頭の中にかなり材料がそろっていて、それを外部に持ち出すときに英語を使って持ち出し可能な形に組み立てる」ということになる。

よく、「リンゴを見て『リンゴ』という単語ではなく『apple』という単語を思いつかなければならない」などと説いている英語入門書を見かけるが、人間は、リンゴを見たとき、日本語の『リンゴ』も英語の『apple』もいちいち思い浮かべたりはしない。その証拠に、見慣れた果物なのに、とっさに名前が思い出せないことはよくあるではないか。それは決して、その果物が何であるか分からないというわけでは決してなく、何であるかはちゃんと理解しているが、対応する日本語(あるいは英語)の名前が見つからないだけである。

ふと腹が減って、台所に行き、リンゴを見つけ、それを食う・・・ この一連の流れにおいて、『リンゴ』という日本語の単語をいちいち意識することはたぶんない。リンゴを見た瞬間にその味や香りは思い出すだろうが、言葉は不要である。

物事を考えるときの道具として、日本語や英語といった言語は非常に不自由なものであり、それらのルールに沿って考えを進めていたのでは、思考能力は大幅に低下するし、実際、そんなことは何か特別な状況ででしかやらない。誰だってそのはずだ。私が今書いているこの文章をまとめると言う作業でも、このページに現れているのとは全く違う順序で、あるいは順序づけなしに、複数の概念が同時に私の頭の中にまず存在していて、それを一本道に並べるときになって初めて日本語のルールが重要な役割を果たすことになる。

結局のところ、「英語で考える」というのは、「もともと必ずしも順番が確定していない、頭の中にあるいろいろな概念を、英語のルールで並べる」ということではないだろうか? 英語と日本語では語順が違うだけでなく、名詞の役割を決める助詞(後置詞)や前置詞も違うし、相と時制のどちらが支配的かという点も異なる。もちろん語彙も異なる。

実は、私は英語の掲示板でうっかり我を忘れてけんかしてしまうときに、発作的に書き込んでしまう英文は慇懃無礼なあてこすりになってしまう。日本語の語順で罵声を思いつき、それを英語の文法にきちんとあう形にして書いてしまうため、主語の部分が長めの文節になり堅苦しい感じになる。しかも、英語は第二言語なので、自動的に思いつく悪口であっても礼儀正しい書式しか思いつけない。そのせいもあって、私は『普段は気さくで面倒見がいいけれど、文化差別など逆鱗に触れるような地雷を踏んでしまうと、ものすごく恐ろしい』というようなイメージができてしまっている。いやまあ、実際にもそういう傾向はあると自覚しているのだけれど、怒ったときにストレートに怒りを自然な形で表現できずビジネス文書で契約打ち切りの最後通牒をたたきつけるような堅苦しい文章を書いてしまうというのは、雑談系の掲示板では避けたいところだ。だれか、「あまり毒気のない」悪口の書き方を教えてほしい。本当の話。

2014.11.11

『お祈りメール』で門前払いを食らったノーベル賞受賞者と、マスコミの懲りない人々

何年か前から使われ始めた言葉かは知らないが、「お祈りメール」という言葉がある。企業の人員募集に対して応募したときに届く、「貴殿のご活躍をお祈り申し上げます」という言葉で締めくくられた不採用通知のことだ。
似たような言い回しは英語にもあって、
“Allow us to keep your name and contact information in our database if an opening suitable for you becomes available in the future.” (将来あなたにふさわしいポジションが空くかもしれないので、あなたのお名前と経歴を記録に残させて下さい)
と、いうような言葉で締めくくったりする。だが、そんな社交辞令を信じるのはバカである。そもそも、「あなたの名前と経歴を記録に残す」とは、極端に悪意に解釈するなら、「もう一回応募書類を提出する必要はない。二度と応募するな」という意味合いもないではなく、俗にいうハリウッド方式で「使う気になれば、こちらから連絡する。こっちは忙しいんだから、いちいち問い合わせの電話なんかしないでくれよ」という意味もありえないではない。

さて、かつてTOEICを受験したとき、ある回のテストに出題された不採用通知メールの文面に、まさにそういうものがあった。『採用選考というのは非常に難しいことで、御返事が遅れて申し訳ございません』とクドクド謝罪する書き出しで始まり、その先頭の1行を見た瞬間に不採用通知だとわかるくらい明白な不採用通知である(採用通知なら、連絡が遅れたことを詫びるのは文末である)。当然ながら、締めくくりにある『代わりのポジションがあるかもしれない』も、馬鹿馬鹿しいくらいあからさまな社交辞令だと思った。
そして私は、その問題でひとつ誤答をした。それは、「このメールには何が書いてあるか」を、4つの選択肢から選ぶ出題だった。語学のテストとしては、選択肢として、その社交辞令の表向きの内容どおりの意味に受け取る短文を選ぶのが正解だった。なぜなら実のところ、出題の中にあった残り3つの選択肢は、その不採用通知メールには書かれていない話だったから。消去法で選ぶと、正解になりうるのは、確かに社交辞令を真に受ける選択肢しかない。とはいうものの、社交辞令をそのまま額面通りに受け取るような脳天気な選択肢を、私はどうしても選べなかった。たまたま私は当時失業中だったので、あの試験問題の文面は読んでいて辛かったなと今でも思う。
日本企業のお祈りメールの文章が日本語の試験に出たとして、「この会社は応募者の成功を祈っている・・・ イエスかノーか?」と出題されたときにイエスと答える人は、初級の日本語学習者であっても、たぶんいないと思うよ。社交辞令は世界中にある。

この種の『お祈り申し上げます』の話題で、少し前にニュースで報じされネットでもちょっとした騒ぎになったものとしては、かつての勤務先にたいして和解と共同研究をマスコミの記者会見で申し出た今年のノーベル物理学賞受賞者、中村さんに対する日亜化学の礼儀正しい返答がある。

「中村教授が、貴重な時間を弊社への挨拶などに費やすことなく、今回の賞に恥じないよう専心、研究に打ち込まれ、物理学に大きく貢献する成果を生みだされるようお祈りしております」

正直な話、大変申し訳無いとは思うが、あの「お祈りメール」を見てニヤリと笑わなかった学者、技術者はいないと思う。なぜなら地道に先行研究をしてきた赤崎先生ならまだしも、中村さんが受賞したのは、いわば「ノーベル商品賞」であって物理学としての価値などないから。もちろん、世の中の役に立つ商品を安く大量に生産する方法を見つけ出すことは、研究室の中で100個試作してひとつできるかどうかというような「売り物として話ならない珍奇なもの」を作ることよりも、社会的には意味があるだろう。でも、世界で最初に発光ダイオードというものそれ自体(色は赤だった)を発明したアメリカ人には、ノーベル賞は贈られていない。科学的な価値という意味では、後者のほうが100万倍貴重だと私は思う。が、赤色発光ダイオードが発明された時代には、もっと基礎科学的な研究分野にノーベル賞が贈られていたので、商業的に素晴らしいという研究は、最初から評価の候補や対象にはならなかった。ところが近年になって、ノーベル賞選考委員たちは、世間に受けるネタを選ぶようになってきた。難しすぎて一般人に理解できない賞だと、世間におけるノーベル賞の価値が下がるからかもしれない。わからないこともない方針転換だけど、それならいっそ、iPod を発売したアップルのジョブズやWindowsのビル・ゲイツにノーベル商品賞を贈ればよい。

ところで、この日亜化学のコメントを見て、私が即座に思い出したのはイギリスのバーナード・ショーとチャーチルの間でなされたという手紙のこと。バーナード・ショーが、
“I would be honored if you would come up with your friends, if any.”(私の作品の舞台を見に来ませんか、お友だちも誘ってきてください。もしいるなら)
と、書き、チャーチルが
“I'm sorry I have another plan on the opening day. I would be glad to come on the next, if still run.” (あいにく初演の日は都合がわるいのでお伺いできません。翌日に参ります。もし、まだ上演されているなら)
と、切り返すという話だ。

できすぎているので実話ではないかもしれないが、それはともかく、日亜化学のコメントの最後にある「ノーベル賞に恥じない、物理学に大きく貢献する成果を生みだされるようお祈りしております」を見て、私はその後に続く「もしできるならね」という嘲りが隠れていると、読み取ってしまった。そう、あのお祈りメールは「ノーベル賞に値する仕事なんかやったことのないお前さんが、いったい何をぬけぬけといっているの。少しは恥を知りなさいよ」という意味である。蛇足ながら、もし今回のお祈りメールの締めくくりを英語に直訳するとしたら、たとえば、
“We wish Prof. Nakamura would be able to continue his study to achieve something great as a development of physics that could be suitable for and not degrade the Novel Prize.” くらいではないだろうか。かなり無礼な表現だが、文頭に We cannot completely deny his possibility currently, so などを加えると、さらに悪意に満ちたものになると思う。
率直なところ、彼が将来「「ノーベル賞に恥じない、物理学に大きく貢献する成果」を生み出す可能性は、私はゼロに近いと思う。さらにいえば、学問としての価値はもとより、裁判の二審判決でもわかるように特許としての商品価値もそんなに高くない。なぜなら、かつて青色LEDの製造で一時的に使われただけで、あの裁判がなされていた当時でさえ、もう使われていない陳腐なものになっていたという動かぬ証拠がいくつも出てきたからだ。彼が和解に応じたのは、最高裁で争った場合には、さらに不利な事実をつきつけられ、和解の6億円さえ消えてしまうかもしれないと弁護士が忠告したからだ。
中村さんは科学者ではなく、エンジニアとしても使い物にならない。彼がアメリカで立ち上げたベンチャー企業は、かなりの金をかき集めてされたものの成果を出せずに破たん寸前である。今回の受賞で篤志家がお金を出してくれるはずだから、まだしばらくは大丈夫だろうけれど。今回、中村さんは日亜に共同研究を持ちかけること自分の会社の延命をもくろんでいるのだなと、そう、私は受け取った。要は、自分の寿命が来て安らかな老後を過ごして死んだあとでなら、自分の会社が破綻しても、痛くも痒くもないということ。
一方、ノーベル経済学賞受賞者が作ったLTCMは悲惨極まりない末路を迎えた。ノーベル経済学賞の対象となった理論によれば30万年に1回しか起こらないはずになっていたことが、設立後わずか数年で起きて盛大に破綻した。その結果、大量の投資家や金融機関が資金を失い、全世界の経済が大混乱に陥るというスキャンダルだ。その時点ではノーベル賞受賞者もそれを選考したスウェーデン銀行の関係者も、みな生きていたから、みんなさぞかし辛かったことだろう。実際、ノーベル経済学賞の廃止そのものさえ論じられたくらいだ。(そもそもノーベル賞が作られたあとで、それに便乗して作られた経済学賞は、ノーベルの名をかたっているだけで本物のノーベル賞とはなんの関係もないのだが)
中村さんは60歳、彼が金をかき集めている事業が彼の寿命より長持ちする可能性はどれくらいだろうか? 少なくともまともな半導体メーカーや電子部品メーカーなら、係わり合いを持とうとは思わない。金を出す連中がいるとしたら、LTCM にいっぱい食わされたの同様な投資ファンドくらいだろう。ただ、連中もそんなに馬鹿ではないので、証券化して一般人に権利を売るなどして、他人の金で投資するはずだ。

私は科学者ではなく技術者なので、技術者をきちんと認めてくれる時代が来てほしいと心底思っている。でも、技術者にとって、ノーベル賞に賞金の額面以上の価値はない。そんなものよりも、あの少しあとにニュースになった、『浜松ホトニクスの開発した直径20インチの光電子増倍管が、米電気電子学会(IEEE)から技術分野の歴史的な業績をたたえる「IEEEマイルストーン」の認定を受けた件』の方が、今回のノーベル・新商品開発賞よりも技術者にとってははるかに高い名誉だと思う。なぜなら、あれは、本当のノーベル賞受賞者をこの世に生み出すために必須な、世界でもまれな電子デバイスを作り続けてきたという評価だから。

日亜化学が高輝度光寿命な青色LEDを商品化したそのとき、私も勤務先でサンプルをとりよせ、あまりの眩しさに感激したものだった。しかし、その後、マスコミが奇妙な虚像を創作しはじめ中村さんもそれに踊ってしまったのを見るようになってからは、もはやこの人は技術者ではなく(科学者であったことは最初からない)、芸能人だなと冷ややかな気分にしかなれなかった。一番悪いのは、虚像を創作して記事を売りさばいたマスコミだが。
未だに苦労話としていまでも面白おかしく報じられている、実験中に爆発事故を何度も起こす化学工場の話が典型的である。それが本当の話だったなら、日亜は2度目の事故の時点で操業停止を食らったはずだし、危険で違法な実験として行政処分を受ける。消防署なり労働基準監督署なりに事故の事実があったかどうかを問い合わせた記者はおそらくひとりもいない。「マンガにでてくる町の発明おじさん」のイメージで作った作文に過ぎない。従業員が死んでも不思議ではないような事故を繰り返し起こすような研究なら、会社にはそれを禁じる監督義務があり、放置や黙認をしていいわけがない。会社が処罰される。

中村さんは、日亜に対して「会いたい」という連絡を一切していない。徳島大学に賞金を寄付したいという話も、マスコミ向けの会見の場でだけしていて徳島大学には伝えていない。つまり彼の言動は、あくまでもマスコミ向けのパフォーマンスであり、演技として記者会見の場で述べてみせているだけということである。当人も自分のレベルはわかっているだろうから、マスコミの威を借りて世間にアピールすることはできても、電話の一本さえ、日亜に直接かけることは怖くできないのだ。それどころか、なんとか徳島に行きたいと思いつつも恐ろしくて徳島に行くことさえ自分ひとりではできない。だから、マスコミの連中にぞろぞろと付き添ってもらって、マスコミのカメラの前で『日亜科学を許す寛大なノーベル賞受賞者様』を演じることを画策した。中村さんは、率直な話、「STAP捏造事件」の理研の小保方晴子さんほどはひどくないけれど、あの件で自殺に追い込まれた笹井芳樹さんのような実力、実績は何もない。むしろ、「全ろうの作曲家」として活動した佐村河内(さむらごうち)守さんに近い。マスコミが作って売りさばいているくだらん虚像だ。STAP細胞よりはましだが、ニセ作曲家とはいい勝負している。

要するに、それらのスキャンダルと同様に物を作らない連中が、イロモノを書き散らしているなのだけである。三原色そろったから、きれいなイロモノ記事を書けるようになったわけですな。こんな人たちにものづくりを語って欲しくない。懲りないやつらだ。

2014.04.27

やさしい単語の派生語を網羅的に覚えると、表現できる世界が広がる

Basic English を勉強した時にも思ったけれど、中学校で習うような基本的な単語であっても、それらを組み合わせてできた単語や接尾辞をつけてできる単語まで使えるようになれば、手持ちの語彙で表現できる範囲は格段に広がる。
例えば、out と come を一つにした outcome は、「結果」という意味の言葉だ。高校では result しか習っていなかったが、英字新聞を見ると、ときどき outcome という言葉を見かける。ニュアンスとしては、result は原因がはっきりしていて、それに対する結果であるのに対し、outcomeは、成り行きで生じた結果も含むらしい。必ずしも、ある原因に対する結果とまでは言い切れず、何かのあとに「出てきたこと」というように、少しあいまいな感じだ。
と、いうわけで、result とoutcomeは全く同じ意味ではないけれど、今までresultと書いていたところに outcomeと書いても、少なくとも意味は通じるし、もしかしたら文脈によってはそちらのほうが適しているかもしれない。

こういった感じで、中学や、高校1年くらいまでの範囲で習う単語の組み合わせで作れる単語を一覧表にまとめて例文を用意すれば、何か作文するときに便利ではないかなと、思ったり・・・ まあ、思うだけで、実際に表を作成する予定があるわけではないのだけれど。

2007.02.25

古い電子辞書を修理に出した

数週間前から液晶表示が乱れるようになってしまった古い電子辞書を修理に出した。

機種はSIIのSR-6500で、収録されているおもな辞書はリーダーズとCobuild。とっくに保証期間は切れているし、昨年末に買ったSR-G10000に全く同じ辞書が入っているから、理屈としてはもう古いものは捨ててもいいのだけれど、何年も使ってきて愛着があるし、こいつのおかげで英語力が身についたようなものでもあるから、やっぱり捨てるに忍びない。修理代が安ければ修理してもらうし、高価だったとしても捨てずに手元に残しておくつもりだ。

SR-6500とSR-G10000のほかに、SR-T7000も愛用している。今でもこれの使用頻度が一番高い。G10000は、素晴らしい機種だけど、建て増しを繰り返した温泉旅館のようなユーザーインタフェースの混乱ぶりにいらだつことが多々あるので、持ち歩くのはもっぱらT7000のほうである。もしかしたら旧製品を開発した技術者は退社してしまったのだろうか。だが、意欲作であることは間違いないし、他社製品とは一線を画すものなので、いずれSIIはG10000は欠点を解消した機種を出すだろう。

2006.12.27

ついに SR-G10000を買ってしまった

もともとは、次の仕事を決めて収入源を確保してから買うつもりだったのだが、いろいろ考えた末、思い切ってSIIの電子辞書、SR-G10000を買ってしまった。遅かれ早かれ買うことは間違いなかったので、購入を何ヶ月も引き伸ばして悩むのは精神衛生上よくないと思ったからだ。大手のネット通販会社は、どこも基本的に同じ値段だ。本当はアマゾンドットコムから買いたかったのだが(高額商品を買ったときにアマゾンから来るギフト券で洋書を買うつもりだった)、なぜか、アマゾンは、12月に入ってからこの製品の値段を値上げしたので、他店のポイント還元率などと見比べて計算してみると、ヨドバシやビックカメラよりも実質的には数千円高い。そこで、ヨドバシカメラのネット通販で注文することにし、先ほど郵便小包で我が家に到着した。昨日の昼1時に注文し、届いたのが今日の正午過ぎ。注文から到着までちょうど24時間だった。年末のこの忙しい時期に郵便局も立派である。

詳細については、後日書きたいと思う。大画面化したので、従来のSIIの機種より奥行きが2センチほど大きい。モノクロTFT液晶に表示される文字は非常に鮮明だ。これで今後数年間は新製品を買うことはないだろう。

2006.11.28

最新型の電子辞書

SIIのSR-G10000
http://www.sii.co.jp/cp/products/english/srg10000/index.html

定価は9万円! ノートパソコンの安いやつと変わらない。電子辞書はいろいろなメーカーから出ているが、英語系のものに限って言えば、SIIの製品に一日の長がある。そして、この機種はSIIの最上級機種だ。高いのも分からなくもない。ただし不思議なことに、家電量販店やアマゾンでは、発売直後から実売価格は6万数千円になっている。値引きを見越して高めの定価をつけているのだとしたら、ちょっとどうかと思う。

実売価格で言っても、安い買い物とは決して言えないが、しかし値段だけのことはあり、収録辞書の規模もさることながら和文、英文の検索機能が強力で、英語の文章を書く人には頼もしい味方になるだろう。実物を店頭で見て、TFTモノクロ液晶画面の読みやすさを確認した。

今すぐ買うつもりはないけれど、次の仕事が決まってまとまった収入があったら、買うかも知れない。もっとも、仕事では使わない(そういう仕事にはつかない)だろうけれど。

2006.09.15

百合系のライトノベルが英訳出版される時代

友人のブログのコメントにも書いたのだが、日本のアニメが海外に広まるにつれて、アニメだけでは飽き足らずその原作になったマンガを読みたいという層に向けて英訳のマンガがさかんに出版されるようになったのが少し前のこと。そして最近では、マンガではなくライトノベル、挿し絵を重視した主として若い世代向けの小説も、海外で出版されるようになってきた。

少し古いところでは、『スレイヤーズ』の英語版が北米で出版されたと話題になったが、一昨日、『ストロベリーパニック』の小説の英語版が、Seven Seas Entertainment から出版されると聞いたときには、さすがにちょっと驚いた。これはまた、ピンポイント攻撃だこと。

9月13日の Seven Seas Entertainment のプレスリリース:
http://www.gomanga.com/news/press_026.php
(10月4日追記。書籍情報のページができていた。
http://www.gomanga.com/manga/strawberrypanic.php )

同社のプレスリリースによれば、2007年4月に出版する6冊のライトノベルのうちの一つが、『ストロベリーパニック』だという話である。値段は 7ドル95セント。アメリカでは書籍も他の商品と同じように売り手の判断で値引き販売できるので、実際にはもっと安くなるはずだ。なお、日本語の原書は662円である。値段が半端なのは、消費税が3%の時代のなごりだろうか?

ところで、「ライトノベル、light novel」というのは和製英語だ。もっとも、遠からず英語の辞書に載るかも知れない。ちなみに、英語版の Wikipedia には、light novel について、こういう説明があった。

A light novel (ライトノベル raito noberu, often abbreviated as ラノベ; ranobe) is a short novel with anime or manga style illustrations, primarily targeting teens and young adults. The term "light novel" is a wasei-eigo, or a Japanese term formed from words in the English language.

Unlike picture books for younger children, light novels contain more text like a novel. In recent years, light novel stories have been popular choices for adaptation into a manga or a TV anime series. Light novels are usually serialized in literary magazines like Gekkan Dragon Magazine and The Sneaker, Dengeki HP, or mediamix magazines like Comptiq and Dengeki G's Magazine. An example of the light novel would be the Slayers novels written by Hajime Kanzaka. Slayers was made into a manga series as well as a very popular anime of the same name, starring Megumi Hayashibara.

やっぱり『スレイヤーズ』ですか。ソノラマ文庫やコバルト文庫などに関する記述はなく、最近の出版潮流という扱いになっているのはちょっと残念。(日本語のWikipediaの記事のほうにはある。)

2006.07.10

If you were gay (Subjunctive/仮定法)

The subjunctive is one of the three grammatical moods of English, along with the imperative and the indicative. Unfortunately, I always confuse the indicative and the subjunctive. It's a matter of usage rather than grammar. When should I use the subjunctive?

Then, I happened to find a good example of the subjunctive. Here we go...


(If the movie doesn't start, click here.)
"If Ryuichi were gay" http://www.youtube.com/watch?v=1fP3PZ0DBW4

Oh... Well... For some reason, I have a feeling that the present indicative tense would be better. -- They certainly are. And that is perfectly okay. I love them. But I'm not gay.

Maybe it's about time I went to school again to study English. :)

(まあとにかく、日本製の毒は、かなりのスピードで世界に蔓延しつつあります。翻訳の品質には色々な問題があるものの、ストロベリー・パニックもプリンセス・プリンセスも、日本のテレビで放送されて1週間以内にファンの作った英語字幕を載せた映像がインターネットに出回る時代になりました。すごい世の中ですね。)

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