« 2015年6月 | トップページ | 2015年10月 »

2015.08.11

心の値段

もし今、どこかの貧乏な自治体が、地元や近隣の医師や弁護士などに呼びかけて「今度の日曜日に住民向けの無料相談会を開こうと計画中です。財政が厳しいため交通費とお弁当代ぐらいしか出せませんが、協力していただけないでしょうか?」と、言ったと仮定する。休日に事実上の無料奉仕を求めているわけだが、呼びかけに応じてくれる先生はゼロではなく、何人かが、善意とプロとしての社会的義務感からこの企画を手助けしたとしても不思議はない。
一方、もしこれに追加の報酬として「時給は1000円です」と付け加えたら、手伝ってくれる人は増えるだろうか、減るだろうか。経済合理性という点から言えば、ゼロ円よりは1000円のほうがマシである。だが、そもそも割にあわない奉仕活動に参加するという決めている時点で、その人は経済的見返りなんて求めていない。その善意に対して、「あなたの時給は1000円です」と値付けしてしまったとき、それを喜ぶ人がいるか/手伝っている人が増えるか、と問われれば、「それは逆効果のおそれもある」と皆んな思うのではないだろうか。
別に無償だから偉いとか偉くないという話ではなく、自分のプロとしてのプライドを、そんな金額に換算されてしまってはたまらないと抵抗を感じるのは、仕事に誇りを持っている人ならどんな分野であっても同様だと思う。
こんな単純な例であっても、経済合理性というものが人間の行動に対して与える力には限界があり、「利潤動機」のたぐいも実際よりも経済学では過大評価させているような気がする。もちろん、その点を重視した行動経済学という分野も発展中だが、それと、既存の経済学との整合性はまだ十分にとれていない。また、経済的に不合理な行動をする人間がいるということを、経済的合理主義で行動する人間が知った場合、その不合理さを承知の上でそれに追従するほうが合理的であると判断する場合もありえるので、合理主義は不合理を打ち消すどころか、かえって拡大することもありえる。
実を言えば、そもそも「利潤動機」とか「利潤の最大化」といったことそれ自体が、不合理を内包している幻だと、私は思っている。国内外の社会問題の多くは、この幻想に(おそらくは嘘であることを承知で)しがみついている人がいるせいで、解決困難になっている。お金で人の心は買えない(売ることもできない)。多少の買収はできても、それはある日突然ひっくり返るあやふやな取引だ。
今日の原発再稼働のニュースを見ていて思うのは、補償金を受け取って原発再稼働に賛成している人も、事故なんて発生するはずがないという前提で賛成しているということ。要は掛け率のよい博打に過ぎない。博打に負けた時に、それを当然のこととして受け止めたりはできない。なぜこうなった、こんなはずではなかったのにと後悔し、怒り、嘆くのは人間として当たり前のことだ。あらかじめ心を買収しておくことは絶対できない。買収しようとしている側も、本当は事前買収は不可能だ、事後保証はどうなるか見当もつかないと知っていながら、目先の締め切りを守るために書類をでっち上げているだけである。

あとは祈るだけ。技術系出身役員が多い九州電力なら、法学部出の役員ばかりだった東京電力よりは原発をマシに管理できるだろう、なんとか廃炉までの数十年間つつがなく過ごせるだろうと、祈るだけである。

心は、売りたいと思っても売れないし、買いたいと思っても買えない。魂を買い取ってくれる悪魔なんて都合のいいものは、どこにもいない。「今のところ、売れたと思っている」「今のところ、買えたと思っている」だけで、実際に所有者は移転してない。する方法もない。少なくとも今の科学技術の範囲では無理。

無理心中用の核爆発設備とか

もう冷戦は過去の話。今でも、「第3次世界大戦で核ミサイルが飛び交って億の桁の人が死んでしまう」というような心配をしている人は、おそらく少数派だろう。1980年代くらいまでは、まだわりと本気でかなりの人が心配していたが、私自身も含め、大抵の人は過去の話だと思っているはず。
そして、過去の話であるがゆえに、日本の核武装の可能性に対する関心も低い。でも70年前のアメリカに作れたものが、今の日本で作れないわけはないし、材料はいくらでもある。不純物の多い発電用の核燃料でも、核爆弾を作れないというわけではない。作りにくいというだけ。
といっても、日本製核弾頭が自衛隊の飛行機に配備されるとか、どこかに大陸間弾道弾の基地ができるという可能性は、たぶんない。準備するにはかなりの時間がかかるし、日本国がそんな動きを見せれば、米中ロシアの3大国がまとまってでも、阻止に動くと思う。ありとあらゆるものを貿易に依存している日本は、基本的に戦争の準備をすることはできない。
ただ、ひょっとして、攻撃用ではなく自殺用の核爆発施設なら、ありうるかもしれないという気が漠然としている。地球上のどこで爆発しても皆殺しになってしまうから、もはや運搬の必要がない、全てを道連れにした無理心中用の核爆弾というのは、1960年代くらいのSFにあったような気がする。輸送することを考えず、建築物としてつくるのであれば、爆発力に上限はほとんどない。「アイツを殺してオレも死ぬ」というのは、個人のレベルであれば珍しくない発想だ。他国との戦争用ではなく自殺用だから憲法第9条には、少なくとも形式上は抵触しない。
実を言えば、自動化されている今のアメリカとロシアの核ミサイルだって、結構それに近いものがあるのではないかな。一度スタートしたら、止める暇もなく全滅まで突っ走ると。
結局、核兵器は「使われるはずはない」という前提で配備されている飾り物だ。単なるこけおどし。
でも、誤動作はありうるし、いい加減、火薬庫で火遊びするようなまねは卒業したほうがいいと思うのだが、反知性主義が根強い大国では、核兵器は神が我々に与えた特別な力だから、自分たちに被害が出るはずはないと本気で信じている人がうじゃうじゃいる。まあ、知ってしまったら、ノイローゼになって夜も眠れない状態になるから、知らないままでいるほうが心の平和を保てるというのは、確かだ。ヒトが当座を生き延びるにあたって必須の姿勢なのだと言ってもいい。でも、いつまで、こんなことを続けるのかな。
毒ガスが国際条約で禁止されているのに核兵器がそうでないのは、戦勝国は、毒ガス攻撃を受けたことはあるが核攻撃は受けたことがないから。だとすると、実際に核兵器の凄惨さを体験しない限り廃絶は無理かも知れない。もうしそうだとしたら、彼らに一度、可能な限り小さな被害で大やけどを経験してもらうという矛盾した期待を持つしかないのだけれど、どこの国の人であれ、無関係な一般人が死ぬのは悲しいと思う。
核爆発を起こさずとも、核兵器の熱線を直射で受けた時の悲惨さを実験室のなかで再現することは別の技術手段で可能だ。反戦は自分勝手だという滋賀県の議員さんは、試しに、人間の体がどういうふうになるかを自分の身体で人体実験してもらって、国民に示してくれないだろうか。そのうえで、戦争の勧誘をして欲しい。
嫌なニュースをたくさん聞くと、厭世的な気持ちになり、「どうにでもなれ。知ったことか」という気持ちになる。これは、たぶん自然な心因反応。思想の右左を問わず、なんであれ戦争の話をし続けることのできる人たちの鈍感さが、ある意味羨ましい。いや、単に私の能力の限界に過ぎないのだが。

2015.08.07

死ぬかと思った!

うつ病が悪化して「死にたい」と思うことはときどきあっても、まさか「何をやっても全部無駄だったのだから、もう死ね!」という気持ちになったのは、これが初めてだと思う。きっかけはエアコン無しの我が家で、すっかり暑気あたりなってしまったからだが、他にもいくつかの精神的、環境的条件が重なり、体と心の両方がきつい状態になった。

「いまは、精神的苦痛が中心だが、そもそものきっかけは熱のせいだし、涼しいところにとにかく逃げてから考えよう」と、いうことで、予約なしで料金の高くなることは承知で、出張や旅行にいつも使っているビジネスホテルのチェーンの地元点に電話したのが、朝の8時半。「いますぐ来ても、客室の清掃があるのでかなり長いことロビーで待つことになる」といわれたが、ロビーだって空調は効いている。とにかく、すぐにタクシー会社に迎車の依頼をし、下着とノートパソコンと数冊の本だけを持って、ホテルまで行った。ロビーのソファーに座って、正午までうとうと。それから部屋の鍵をもらい荷物を起き、1階のレストランで数日ぶりにまともな食事をし、先ほど部屋に戻ってきたところ。

今回身に付けているもの、持ちだしたものは、「かりに大災害がきて、家財道具のほとんど全部を捨てて逃げるとして、最低限何を持っていくか」の限界に近い。今日、家においてきたものは、必要なら買いなおせる。

パソコンも買い直せる物だが、今、さまざまな情報を保存してあるこれがなくなると、さすがに再出発までに大変なので、パソコンは持っていく。数日分の、下着、運転免許証とクレジットカード、銀行カードの入ったサイフ、これだけでいい。

部屋にも無事入れてもらえたし、とりあえず今日は、もうなにもしないつもりだ。

« 2015年6月 | トップページ | 2015年10月 »

2021年10月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ