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2015.01.08

英語吹き替え版アニメを見て改めて気がついた、セリフと演技の重要さ

正月休み中になんとなくインターネットで見つけたアニメ、『デート・ア・ライブ』を見ていて、日本語のセリフ、複数の英語字幕、そして公式に発売されている北米版英語吹き替えの音声も聞く機会があり、ちょっと気になることがあったので、先週、北米版のBlu-ray Discをアマゾンに注文し、あちこちを聴き比べていて気がついたこと。

海外の掲示板で時崎狂三の人気がかなり高いこと、これはまあわかるとして、一方、なぜか鳶一折紙を嫌っている視聴者が多いような印象を受けて不思議だったのだけれど、英語吹き替えの音声を聞いて、「なるほど」と納得した。
鳶一折紙は、通常、感情を押し殺した振る舞いをしているキャラクターで、英語吹き替え版でも一応はそうなのだが、日本語版に比べると、はっきり嫉妬深いニュアンスがある。そもそものストーリーの流れとして、主人公は彼女に付き合ってくれと告白しているのだから、設定上は確かに『本妻』の立場にあるのだが、作中での扱いは主要キャラではあるものの、ヒロインではなくサブキャラクターである。そして、感情をほとんど出さないで淡々としゃべっている日本語版は、ある種の儚さと健気さがあるのに対し、英語版では主人公が自分以外の女性についての話をするとき、彼女のセリフは、明らかに不快感を帯びてくるのだ。それでいて、言葉の表現としてはこの種の無口キャラの一般的傾向として婉曲的なので、「当てこすりの嫌味を言って、主人公をあやつろうとしている」というような印象がなくもない。日本語版では、無口で世間の常識からずれている不思議な天才という、ありがちな属性だし、英語版でもキャラクーの性格分類をするとしたら、そのカテゴリーに入るが、しかし、天然ボケに雰囲気の日本語版に比べると 英語版は多少なりとも manipulative な印象が強めということ。
セリフの文面を見るだけなら、日本語でも英語でも内容に大差はない。そして、声の演技で表現されている性格が 微妙に違う。その微妙な違いのため、他のキャラクターの性格とのバランス関係としての立ち位置が、わずかではあるが日本語版に比べて利己的かつ非友好的で、おまけに支配欲もあって、意図的に主人公を翻弄しようとしていると思えないでもないという「嫌な女」という面が少し出ている。

他の登場人物の性格も微妙に違う。ストーリーを理解しやすくするために日本語版と違うセリフになっている部分があるというせいもあるのだが、セリフがほぼ同じ内容のところでも性格が違って見える。

そのニュアンスの差は、文面ではなく声に込められて伝わってくる感情によるものなので、誤訳というわけではなく、キャラ作りの演技が少し違うという点から生じていて、なるほど、これだと嫌な女性だと思う視聴者いても不思議はないという気がした。
それはそれで、英語版の各登場人物はこうなんだなと納得しているので、翻訳や役作りに文句をつけようというわけではないのだが、今さらながらの話だが、演技とキャラクター作りの設定って大事だなとあらためて思ったところだ。

他のアニメでも英語吹き替え版を買って、登場人物の雰囲気の差をくらべてみようかな。といっても、ディスクはそんなに安くないから、いくつもは買えないけれど。

2015.01.01

『英語で考えよ』というが、そもそも『日本語』で考えているのか?

初心者向けに書かれた英語学習書には、ときどき、「英語で考えるようになること」と、いうような提案・忠告が書いてある。言わんとすることは十分分かるのだが、果たして、日本人は日本語でモノを考えているのだろうか?

日本語を全く使っていないとは言わないが、頭の中で物事を考えているとき、文章の形にはなっていないしなるはずもない。もともと人間の脳は、断片的な事柄を同時に大量に処理するようにできていて、文章のように一本の道になった大きなものを時間をかけて処理するというのは後天的な訓練によって得た能力である。

頭の中に散在している断片的なアイデアを日本語の一本の文章に組み立てるという作業をするためには、まずは、「断片的なアイデア」を思い浮かべなければならない。実際には、文章をまとめている最中に新しいアイデアを思いついたり、アイデアの間違いに気がついたりもするので、必ずしも全部のアイデアが先にそろっているわけではないが、それにしても、まあ、どちらが先かといえばアイデアのほうのはずだ。

そして、頭の中に最初にできる断片的なアイデアは、具体的な日本語の文章や単語というよりは、もっと直感的で抽象的なものである。もちろん英語でもないし、フランス語でもない。図形だったり色彩だったり過去の感情の回想だったりする。

考えているだけなら、日本語はあまり使っていないのではないだろうか? 頭の中を同時に漂っている複数の考えに強制的に順番を与え一本の文章に組み立てるという作業をするときになって初めて、日本語という言語のルールが積極的に活用されることになるような気がする。

もちろん、文章を組み立てるという作業もまた、考えをまとめるために必要なことなのだから、「日本人は日本語で考えてる」というのは、確かにその通りだとは思う。しかし、考えるという行為をもっと分解してみれば、私には「日本語でも英語でもない脳内の固有の表現形式として、すでに頭の中にかなり材料がそろっていて、それを外部に持ち出すときに日本語を使って持ち出し可能な形に組み立てる」というべきだと思えてならない。

そういうことであるなら、俗にいう「英語で考える」というのも、「日本語でも英語でもない脳内の固有の表現形式として、すでに頭の中にかなり材料がそろっていて、それを外部に持ち出すときに英語を使って持ち出し可能な形に組み立てる」ということになる。

よく、「リンゴを見て『リンゴ』という単語ではなく『apple』という単語を思いつかなければならない」などと説いている英語入門書を見かけるが、人間は、リンゴを見たとき、日本語の『リンゴ』も英語の『apple』もいちいち思い浮かべたりはしない。その証拠に、見慣れた果物なのに、とっさに名前が思い出せないことはよくあるではないか。それは決して、その果物が何であるか分からないというわけでは決してなく、何であるかはちゃんと理解しているが、対応する日本語(あるいは英語)の名前が見つからないだけである。

ふと腹が減って、台所に行き、リンゴを見つけ、それを食う・・・ この一連の流れにおいて、『リンゴ』という日本語の単語をいちいち意識することはたぶんない。リンゴを見た瞬間にその味や香りは思い出すだろうが、言葉は不要である。

物事を考えるときの道具として、日本語や英語といった言語は非常に不自由なものであり、それらのルールに沿って考えを進めていたのでは、思考能力は大幅に低下するし、実際、そんなことは何か特別な状況ででしかやらない。誰だってそのはずだ。私が今書いているこの文章をまとめると言う作業でも、このページに現れているのとは全く違う順序で、あるいは順序づけなしに、複数の概念が同時に私の頭の中にまず存在していて、それを一本道に並べるときになって初めて日本語のルールが重要な役割を果たすことになる。

結局のところ、「英語で考える」というのは、「もともと必ずしも順番が確定していない、頭の中にあるいろいろな概念を、英語のルールで並べる」ということではないだろうか? 英語と日本語では語順が違うだけでなく、名詞の役割を決める助詞(後置詞)や前置詞も違うし、相と時制のどちらが支配的かという点も異なる。もちろん語彙も異なる。

実は、私は英語の掲示板でうっかり我を忘れてけんかしてしまうときに、発作的に書き込んでしまう英文は慇懃無礼なあてこすりになってしまう。日本語の語順で罵声を思いつき、それを英語の文法にきちんとあう形にして書いてしまうため、主語の部分が長めの文節になり堅苦しい感じになる。しかも、英語は第二言語なので、自動的に思いつく悪口であっても礼儀正しい書式しか思いつけない。そのせいもあって、私は『普段は気さくで面倒見がいいけれど、文化差別など逆鱗に触れるような地雷を踏んでしまうと、ものすごく恐ろしい』というようなイメージができてしまっている。いやまあ、実際にもそういう傾向はあると自覚しているのだけれど、怒ったときにストレートに怒りを自然な形で表現できずビジネス文書で契約打ち切りの最後通牒をたたきつけるような堅苦しい文章を書いてしまうというのは、雑談系の掲示板では避けたいところだ。だれか、「あまり毒気のない」悪口の書き方を教えてほしい。本当の話。

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