安物やガラクタを加工して、まっとうなモノに仕上げることに憧れる
子供の頃に、ガラクタの電子機器を集めて部品を取り出してものを作っていたせいか(たいていは失敗した)、きちんと品質を保証された材料や部品を買ってきて何かを作ることよりも、あり合わせの材料を何とか騙し騙しつかって何かをつくり上げるということに、昔から憧れている。
漫画や小説などに出てくる、街の発明家やエンジニアなどの姿だ。ポンコツの自動車を組み合わせて、ひとつのまとものに動く自動車を作るとか、壊れた無線機を組み合わせて応急的に救援電波を送るとか、そういう話。あるいは、家電製品の開発(これはきちんとした大企業の製品開発)であっても、高価な部品を使うのではなく、なるべくありふれた安価な部品を組み合わせ、部品のもつ能力を最大限引き出して優れた製品を作るなど・・・ そういうことを、モノ造りの本道だと昔から思ってきた。
でも、実は、それはいつでも正道であるというわけではないと、最近気がついいた。月産何万個という製品ならともかく、ある客先からの要望に応じて、たったひとつだけ何かを作るというときには、部品の値段よりも設計作業にかかる様々な検討や実験の手間のほうが全体に占めるコストは大きい。100万台作る機械なら、100万円の実験コストをかけて1台あたりの部品代を10円けずることができれば、全体としては900万円の節約になる。でも、たった一台しか作らないあ受注生産のものの場合、10円の部品代を削るために100万円の実験をするなんて馬鹿げた話だ。
悲しいことに、私は、身に染み付いた性分がまだ邪魔をして、そういう割り切りをできない。どうしても、技巧に走って量産向けのコストダウンのことを考えてしまう。もっと悪いのは、そういうコストダウンのための、いわば「小細工」を実施できる自分のことを、技能のある技術者だとうぬぼれている。でも、必要のないとことに必要ないテクニックを盛り込んでいい気になっているなんて、ひとりよがりの3流だ・・・
わかってはいるけれど、身に染み付いた価値観、「設計はこうでなければならない」という思い込みから、なかなか自由になれない。どうすれば、考え方を切り替えられるのだろうか・・・ 困っている。これは、知識や技術力ではなくて、むしろ思い込みとか固定概念に縛られているということ。どこかで、「あ、なるほど」と納得できれば、心が自由になると思うのだけれど。
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