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2014.06.25

安物やガラクタを加工して、まっとうなモノに仕上げることに憧れる

子供の頃に、ガラクタの電子機器を集めて部品を取り出してものを作っていたせいか(たいていは失敗した)、きちんと品質を保証された材料や部品を買ってきて何かを作ることよりも、あり合わせの材料を何とか騙し騙しつかって何かをつくり上げるということに、昔から憧れている。
漫画や小説などに出てくる、街の発明家やエンジニアなどの姿だ。ポンコツの自動車を組み合わせて、ひとつのまとものに動く自動車を作るとか、壊れた無線機を組み合わせて応急的に救援電波を送るとか、そういう話。あるいは、家電製品の開発(これはきちんとした大企業の製品開発)であっても、高価な部品を使うのではなく、なるべくありふれた安価な部品を組み合わせ、部品のもつ能力を最大限引き出して優れた製品を作るなど・・・ そういうことを、モノ造りの本道だと昔から思ってきた。

でも、実は、それはいつでも正道であるというわけではないと、最近気がついいた。月産何万個という製品ならともかく、ある客先からの要望に応じて、たったひとつだけ何かを作るというときには、部品の値段よりも設計作業にかかる様々な検討や実験の手間のほうが全体に占めるコストは大きい。100万台作る機械なら、100万円の実験コストをかけて1台あたりの部品代を10円けずることができれば、全体としては900万円の節約になる。でも、たった一台しか作らないあ受注生産のものの場合、10円の部品代を削るために100万円の実験をするなんて馬鹿げた話だ。

悲しいことに、私は、身に染み付いた性分がまだ邪魔をして、そういう割り切りをできない。どうしても、技巧に走って量産向けのコストダウンのことを考えてしまう。もっと悪いのは、そういうコストダウンのための、いわば「小細工」を実施できる自分のことを、技能のある技術者だとうぬぼれている。でも、必要のないとことに必要ないテクニックを盛り込んでいい気になっているなんて、ひとりよがりの3流だ・・・

わかってはいるけれど、身に染み付いた価値観、「設計はこうでなければならない」という思い込みから、なかなか自由になれない。どうすれば、考え方を切り替えられるのだろうか・・・ 困っている。これは、知識や技術力ではなくて、むしろ思い込みとか固定概念に縛られているということ。どこかで、「あ、なるほど」と納得できれば、心が自由になると思うのだけれど。

2014.06.23

安物のスピーカーでいい音を出せないかなぁ

学研の電子ブロックの復刻版が発売されたのが数年前のことで、その廉価版も学研の「大人の科学」で発売されている。少し前に買って、レフレックスラジオの回路を組み立て、選択度は悪いけれどとにかく地元のラジオ局の放送を十分楽しむことができている。
ケースに取り付けられた超小型のスピーカーは、当然ながら音質をうんぬんできるようなものではないのだけれど、それでも、ケースの背面が開けっ放しになっているときと、たんなる雑誌でもいいのでスピーカーの後ろをふさいで密閉式に近い形にした時とでは音質に大きな差が出る(後者のほうが、あきらかに良い)。

オーディオマニアの人が聞いたら笑うかもしれないが、秋葉原の部品店で、ひとつ数百円で売られている程度のスピーカーを複数用意して、空気の容量の違う大きな箱にいれてならべたら、それなりに良い音質のスピーカーシステムが作れないものだろうか。それとも、今どきならDSPで信号処理して多数のスピーカーを駆動するようなものが当たり前なのだろうか・・・ まあ、思うだけで、実際に自分で何かを作るわけではないのだけれど。
子供の頃にガラクタから電子部品を取り出して工作を楽しんでいたせいか、素性の良いきちんとした部品をつかって、まともなものを作るというモノづくりの正攻法よりも、怪しげな安物をごちゃごちゃと料理してトリッキーな面白いものを作ってみたいと、今でも時々思う。そこで問題は、「そんなものを作って、何に使うの?」ということだね。作ってみたいから作るというのはいいとして、使い道がない。

2014.06.17

殺意を感じる相手はいない

4年くらい前のウツ病最悪期のとき、当時通っていた病院の先生から
言われたこと。おそらくは、自殺の可能性をある程度考慮しての言葉だったのでは
ないかと思うが、こんなことを言っていた。微妙な言い方をしていて、この先生の恩師の
言葉の引用だそうだ:

「人生で充実感を得る一つの方法は、大嫌いな敵よりも1日でもいいから長生きすること」
「『そうか、ついにあいつは死んだか!』と、いうのは、他には得難い充実感がある」

・・・と。おいおい、医者が行っていいことなの? と、一瞬思ったが、不愉快には思わなかった。
それ以前の先生との話でも、「実行したり口にしたりしない限り、心のなかで何を思うかは、
どんな内容であれ自由だ」と聞いていたからだ。遺族に暴言を吐くならトンデモナイ話だが、
もし殺しても飽きたらないというような人物がいて、そいつが、自分の手を下すことなく
死んでしまったというのであれば、そして、自分もそいつも年寄りで、どちらが先に棺桶に入っても
不思議はないという状況だったら、「そうか、アイツがくたばっか」と、一人で祝杯をあげるという
神聖ならざる喜びも悪くないかもしれない。そうほくそ笑むことによって、自分の今後の人生が
少しでも楽しくなり、それがまわり回って他の人に対する接し方にも良い結果をもたらすので
あれば、結構なことだ。まあ、もっと嫌なジジイになってしまうなら、それはダメだろうが。

今思うに、あの先生の話は巧妙に組み立てられていると思う。
まず、あの先生自身の言葉ではなく、すでに引退し棺桶に片足を突っ込んでいる老人の言葉で
あるということ。ならば、少々不謹慎であろうとも、憎悪の対象の自然死や病死を歓迎して
いい気持ちを味わうとしても、当人も遠からずして向こう側に行くのだから、それまでの数年を
過去のわだかまりから自由になって生きることを責めようとは思わない。
これが、まだ平均寿命までまだ20年以上あるような人物だと、ちょっと嫌な感じが強まるなと
私は思うが。幸か不幸か、私はまだ20年以上生きる。

先生の話のもうひとつの工夫(作り話だと見ているわけではない。実際に恩師から聞いたの
だろう)は、何か努力をしろとか、まして憎い敵を見返してやれとか、そういうことは何もなく、
ただ1日だけでも『アイツが死ぬよりも先に死なない』という条件を満たすだけでいいということ。
出世して見返せなんて激励を、ウツ病真っ盛りの患者にするわけがない。自己評価が
限界近くまで下がっている患者に対して、「ただ生き延びたというだけで、勝ちなのだ」と、
さり気なくメッセージを送っている。

毎回30分以上の話をしてくれる先生だった。精神科専門の大病院で、他の医師がもっと
投薬中心の短時間の診療で患者数をこなしているから、こういう精神療法の先生も在籍して
できるのかな、これでは儲からないだろう・・・ などと思ったものだが、でも、何度かこの先生の
前では号泣することができた。他の先生では、そういうことはほとんどない。

それはともかくとして、私は、不思議と、誰かを殺したいと思ったことはない。少なくともここ
2,30年は。かりに完全犯罪が可能な条件が与えられたとしても、殺害したいとは考えない。
死ねば祝杯を上げる・・・ と、いうのも、あまり実感がわかない。

嫌いな人物はいた。10年以上前に縁が切れ、今でも会いたくもないし、同じ部屋で空気を
吸うのもかんべんして欲しいと思うような人は、ひとりかふたりいるが、それでも、そいつが
死んで嬉しいかというと、たぶん訃報を聞いても嬉しくもなんともないだろう。

面白いことに、映画やニュースなどでは、何らかの集団に対する漠然とした殺意を感じる
ことはある。どういうわけか、個人には殺意を感じない。自分の身に危険が及べば
自衛的に反撃して殺すというのはあるだろうが、それは憎いからというより怖いから攻撃
するのであって、危険や恐怖がなくなれば殺すはずはない。
万が一ありうるとしたら、家族に重大が危害が加えられて復讐劇を繰り広げるというような
ストーリーに自分が巻き込まれた場合くらいだろうか。

そんなこんなもあって、実は、「憎いアイツよりも1日でも先まで生き延びることができれば、
大きな充実感を味わえるかもしれないよ」と、いう、あの先生の話は、一般論としては
そういうものだろうなと納得し賛成もできるのだけれど、幸か不幸か、私自身には
当てはまることがない。怒ったり、罵ったりという程度なら、かつて感じたことはある。
それも、何度もある。でも、それは殺意や憎悪というより、苛立ちからだった。危害を
加えたいと思ったことはない。

それとも・・・ もしかしたら、「今にして思えば、殺意など無かった」というだけで、
かつては感じていたという事実を、さっぱりと忘れてしまったのだろうか? これは、
当時の記録があるわけでもないので、もうわからない。

とにかく、「私にとって、殺してやりたい相手や、死ねば祝杯を上げてやるぞと思う
ような相手はいない」ということは、まずは喜ばしいことだろう。ただ、そこまでの憎悪は
ともかくとしても、他人に対する感情が希薄であるという点では、いいことばかりではない
のかなという気もしないではない。だって、よく付き合う友人も、身近にはひとりも
いないのだから。(幸い、高校時代の友人の一人とまだ付き合いは続いている。ただ、
お互い遠くに就職したので、会う機会はほとんどなくなってしまった)

2014.06.01

昨日までは嫌いだと思っていたサービスが、今日からはお気に入りになる不思議

私にとってはEvernoteがそれ。最初、「世間で噂になっているから」という理由で
同社のサイトにアクセスしてみる。
1.まずサイトに説明のページを見つけられなかったことに嫌悪感を感じる
2.しかたなく、「習うより慣れろということか」と、Windows用のアプリをダウンロードして
インストールする
3.起動したが、使い方がよくわからない。これは使いものにならないと思ってアンインストール
4.数ヶ月経過
5.ふと、「高度な使い方なんて期待せず、パソコンに向かっている時にふと思いついたことを
 書き付けておくメモ帳として、使えないか。そういうサービスのはずだ」と思い立つ
6.今回もアプリは、いまいちわからない。ユーザーインタフェースになじめなかった
7.でも、今回は、マシなきっかけがあった。数日前にEvernoteからの自動送信メールが
来ていて、メールを転送するとエバーノートに保存されると知った。届いていたメールは、
私のエバーノートに転送するときの受信用アドレスだった。試しに転送してみて、6の操作で
転送したメールが確かに保管されていることを確認できた
8.そういうわけで、何か使えそうだと思い、windowsのアプリはともかく、ブラウザ画面で
使えないかと思って、そちらを試した
9.ブラウザ画面のユーザーインタフェースのほうが、わかりやすい。実際にはブラウザも
デスクトップアプリもほとんど同じ見た目のはずなのに、なぜか後者は「なんだかわからない」
という気分になったのに対し、ブラウザの方は、「これなら自分でも使えそう」だと直感した。
10.そういう経緯で、今は日々の思いつきをブラウザ経由でEvernoteに書き込んでいる。
11.今ではお気に入りのサービス
Evernoteは何も変わっていない。変わったのは、私の受け止め方だけ。
そもそも、最初に感じた、「直感的な嫌悪感」は何だったのだろうか? そこには、単なる
「これはよく分からないな」というような、疑問やとまどいの感情ではなくて、
「これは不良品だ、欠陥だ」という感じの不愉快とか怒りに近いものがあった。
ところで、今このメモを書いていて気がついたが、ブラウザのプログラムも、なにやら
欠陥があるね。自動保存の振る舞いがおかしくて、たまに保存も編集もできなくなることが
ある。いったんログアウトしてログインしなおせば解決するが。

それはともかく、元の話に戻る。Evernoteの提供している機能は一切変わっていないのに、
私の受け止め方は大きく変わった。嫌悪感のものにあったのは、うつ病の認知療法などでも
よく言われる「こうでなければダメである、そうでないものは悪いものだ」という思い込みだ。
一般に人間は、初めての道具をマニュアル無しで使う必要がある時には、
「こういう操作をすると、こういうふうに動くだろう」という仮説を立てながら、試行錯誤をする。
使い方がわからなくて怒るのではなく、自分の考えた仮説とは異なる結果が出た時に、
「こういう結果や反応になるのが正しいはずなのに、この道具は間違った結果を出した。
これは粗悪品だ!」と、怒るのだ。この思い込みには、もうひとつ重大な思い込みが隠れて
いる。それは、「粗悪品を作るのは、罪悪だ!」という道徳的な思い込みである。このふたつが
重なると、悪徳商法に騙されたかのような怒りが、ほぼ自動的に湧いてくる。
ソフト会社のユーザーサポートにかかってくる電話や送られてくるメールが、しばしば質問ではなく
非難や憎悪であるのはこのためだ。(本当に欠陥の場合もあるが)

私は、今、Evernoteを最も初歩的な使い方でしか使っていない。その範囲であれば、
ブラウザ上で起こる一時的なフリーズなども含め、意図しない挙動にあったときにどう対処すれば
いいか一応わかったので、「やれやれ、またか」と思いつつも、もう「欠陥品だ、罪悪だ」とは
思わない。

欠点を「そういうものさ」と飲み込んでしまえれば、あとには利点を活用する喜びだけが残る。

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