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2004.09.29

役に立たない出版社のウェブサイト

書籍の情報を求めて出版社のウェブサイトに行っても、結局、アマゾンや Esbooks で見つかる以上の情報が見つかることは少ない。書店のウェブサイトも、ネット通販のアマゾンや Esbooks を別とすれば、まともに使い物になるのは紀伊国屋くらいのものである。

たかだか数百円から数千円のもののために、大規模なデータベースを整備して在庫情報を公開するのは、経済的に引き合わないのかも知れない。が、それにしても、出版社や書店のサイトの「使えなさ」には目を覆うものがある。ISBN番号が分かっていてさえも、その本の出版社のサイトでは、本の情報を見つけることができないことがある。それらしい検索用の画面があっても、その出版社の商品はまず引っかからないのだ。見つかるのは、そのウェブサイトに載っているどこかの知らない作家のエッセイである。書籍のデータがきちんと整理されておらず、何がどこにあるか全く分からない。雑誌の情報は数ヶ月遅れであったりするサイトも珍しくない。

そして、その出版社からどこかの書店にリンクが張ってある場合、残念ながらそこでも書籍の在庫情報などは分からない。載っているのはサイン会をはじめとするイベント情報や、ゴシップ記事、そして、電車の中で見かけるのと大差ない新刊情報ばかりである。

結局、ちょっと前に出版された本を読みたいと思うと、アマゾンか図書館で検索する以外にない。こんな状況では、出版不況だとか街の書店が淘汰されるとかいう嘆き声を耳にしても、全く当然の帰結ではないかと思い同情する気になれない。入手難の本があれば、客は電車を乗り継いででも買いに行くのだ。だが、欲しい本が存在するかどうか分からないなら、書店に行ったりはしない。

消費者としては欲しい本がすぐに見つけ出し購入できるような体制を、出版社なり書店なりに整えて欲しいものだと思う。コンピューターは万能薬ではないしIT化すれば自動的に商売がうまく行くという保証などはないが、どこか、日本の中小の出版社向けのデータ検索ウェブサイトの汎用パッケージでも作ってくれないものだろうか。IBMでもマイクロソフトでもオラクルでもいい。もちろん日本のIT会社でもいい。どの会社も「これからは中小企業の市場を開拓したい」と売り込んでいるようだし、ほとんど手付かずの世界だと思う。

見つけることのできない商品は、買うことができない。見つけてもらえない商品は、売れるはずがない。

2004.09.26

Graded Reader その3

先日書いたように、洋版ラダーシリーズから出ている教材用に要約された Jane Eyre を読んで、その種の教材に興味を持ったので、Penguin Readers と Oxford Bookworms から出ている Jane Eyre も取り寄せてみた。

ペンギン版の Jane Eyre
オックスフォード版の Jane Eyre とでは、かなりページ数が違う。ペンギン版は、Greaded Reader にしては多めで、150ページほどあった。元の作品が長いから無理もないと思う。オックスフォード版は100ページで、ところどころに映画から持ってきた写真が入っている。

今回も、ペンギン版よりオックスフォード版のほうが書き直しの度合いは大きい。例えば、ロチェスター氏がジェーンに対して、質問の形をとりつつ自分のことを告白をする場面。オリジナルとペンギン版では、"Suppose you were a wild boy..." というような言い出しで始めていて、以下、自分の境遇を you という代名詞で一般化して述べている。一方、オックスフォード版では、"suppose a boy... makes a mistake..." となっていて、以後の代名詞は he である。

「一般論を述べるとき you を不特定な人物の代名詞として使うという英語の習慣は、ノン・ネイティブには分かりにくい」というのは、しばしば指摘される事実だが、この場面では、ちゃんと言い出し部分で suppose と断っているのだから主語の書き換えはたぶん必要ないと思う。

このロチェスターの問いかけに対して返事をするとき、ジェーンは、オリジナルとペンギン版では、質問に出た人物を he や抽象名詞で指し示してる。つまり、まだ一般論が続いている。ロチェスターが自分の身の上を語っているとジェーンは気がついているのかも知れないが、取りあえずは一般論である。一方、オックスフォード版は、ジェーンは you を使っている。これも、たぶん一般論の you であって、ロチェスターのことをさしているわけではないと思う。それとも、ジェーンはロチェスターのこととして返事をしているのだろうか?

ストーリーの種明かしはしたくないので、この場面についてはこれ以上書かない。ただ、ここはストーリー展開の上で、ひとつの重要なポイントである。オックスフォード版は、やや会話のつじつまを合わせ過ぎているような気がしないでもない。

Pride and Prejudice の場合は、オリジナルの英文が難しかったので、語彙を制限して要約した後でもあいかわらず難しい表現が残されていたが、Jane Eyre は、オリジナル自身が Pride and Prejudice より比較的易しい文体なので(ただし、ロチェスター氏の長広舌の部分はちょっと難しい)、ペンギン版もオックスフォード版も、かなり易しい英語になっている。おそらく Pride and Prejudice が例外的にこのシリーズの他の本より難しいのだろう。ペンギンから出ている現代の小説の Retold 版(レベル5や6)を読んでみると、だいたい今回買った Jane Eyre と同じくらいの難易度である。

もっとも、英語は Pride and Prejudice より易しくても、ストーリーの「重さ」という点ではこちらのほうがずっと深刻だ。届いた本を読み比べようと思って頭から読み始めたが、つらい描写にちょっとうんざりして途中まで読み飛ばし、ジェーンが学校を出るあたりから2冊を読むことにした。重要な部分なのだが、何回も繰り返し読んで楽しみたい部分だとは思わない。

Jane Eyre は、もともとがかなり長い作品なので、省略が多くなっているオックスフォード版や洋版ラダー版よりは、やはり原文の感じがある程度残っているペンギン版をお勧めしたい。

2004.09.22

Graded Reader その2

昨日書いた話に引き続き、Penguin Readers と Oxford Bookworms から出ている Retold版の Pride and Prejudice について紹介しようと思う。

オリジナルの小説が出版されたのは1813年、つまり、約200年前である。日本語の場合は、明治時代と終戦後に大改造を受けているので、200年前の言葉というと現在とはかなり違ってしまっているが、英語はそれほど変化していないので、オリジナルを読むとしても現代英語の知識の範囲で何とかなる。英語の歴史においても、ある時期に文法や語彙が大きく変化したことがあり、それ以前の英語の文章は、現在の普通の英米人には読めないそうだ。

ところで、どこまで本当かは知らないが・・・

第二次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパに進駐した米軍は、現地の民間企業からさまざまな軍需物資を買い入れた。そのとき、契約書には、「正しい英語で書類を書くこと」という注意書きが印刷してあり、これは、イギリスの会社にあてた書類にも形式的に挿入されていたらしい。

アメリカ人から「正しい英語を使え」と言われたイギリス人は、「現在の姿に堕落してしまう以前の本物の英語」で書類を作って米軍に送りつけ、以後、この失敬な但し書きはイギリス企業への書類からは削られた。

・・・のだそうである。ホントかね? Pride and Prejudice に登場するベネット氏が現代に生きていれば、そういう回りくどい当てこすりをやって愚か者をからかうかも知れないが、問題は米軍のほうである。ロンドンから送り付けられた中世英語の書類を見ても、それが英語であるということにさえ気が付かず、再度「正しい英語を使え」と通達を出しそうな気もするぞ。

閑話休題。現代英語の知識の範囲で何とかなるとはいうものの、やっぱり、ジェーン・オースチンの小説は難しい。初めて見てびっくりするのは、現代の普通の小説に比べてひとつの文が長いということである。今ならピリオドで切って別々の文にするようなものが、カンマやセミコロンで区切るだけで続けられている。見た目がそうだというだけで、基本的には、ただ前から順に読んでいけばいいので、第一印象から受けるほど難しいわけではないのだが、どこで区切っていいか分からなくなるような長い主語があったりすると、思わず鉛筆を手にとって文章の切れ目をページに書き込みたくなることもある。

ペンギンやオックスフォードから出ている Retold 版では、この「ひとつの長い文」を短い複数の文に切り分けることは避けていた。おそらくオリジナルの文体を尊重するためだと思う。原文を要約したり易しい単語に書き直した後でも、文体は維持されている。このため、語彙のレベルがそんなに高くない(せいぜい 2500 head words)わりには、英文としての難度は高い。面白いことに、語彙としてはペンギン版のほうが易しいものになっているはずだが、文章全体としてはオックスフォード版のほうが明らかに易しい。オックスフォード版は、オリジナルでは間接的にほのめかしていたことを、明確に説明するように書き換えたり単語を補ったりしているからだ。

例えば、近所に引っ越してきたビングリー氏をベネット氏が訪問し、それに対する返礼として今度はビングリー氏がベネット氏の家を訪問する場面で、オリジナルとペンギン版では、Mr Bingley returned Mr Bennet's visit となっているが、オックスフォード版では、"As politeness required, Mr Bingley come to visit Mr Bennet" と書き換えられていて、儀礼的な訪問であることを読者に明示している。

また、将来の遺産相続人であるコリンズ氏がビングリー家を訪問したとき、ビングリー夫人は、「いずれ我が家をこの人物に取られるのだ」と思っているので、コリンズ氏のお世辞を聞いても到底いい気持ちにはなれない。この場面は、このように書き換えられている:

オリジナル:
His commendation of everything would have touched Mrs Bennet's heart, but for the mortifying supposition of his viewing it all as his own future property.

ペンギン版:
His approval would have touched Mrs Bennet's heart, if she had not believed that he was viewing it all as his own future property.

オックスフォード版:
Mrs Bennet would normally have been delighted with such prise, but she could not help thinking that he was perhaps admiring it all as his future property.

ペンギン版は、おそらく 「but for +名詞」(もし~がなければ)という構文を避けるため if に置き換えたのだろうが、個人的には、かえってオリジナルより分かり難くなっているような気がする。

ペンギン版もオックスフォード版も、夫人が思い込んでいる疑念は that 以下に書いてあり、そこはほぼ同じ形である。だが、ペンギン版は、仮定法の解釈でちょっととまどう。「ベネット夫人は感心するはずだった。もし、(that以下)であると信じなかったのであれば。」 要するに、(that以下)であると思い込んでいるということだ。

一方、オックスフォード版は、仮定法ではなく直説法でベネット夫人の不信感を述べている。さらに、副詞 normally を追加することで、普段の反応ではないことを読者に示している(実際、夫人はお世辞は大好きである)。「ベネット夫人は、普通ならこういうほめ言葉を喜ぶはずだが、(that以下)なのだろうと思わずにはいられなかった。」 これは、単純に前から読んでいくだけで理解できる。

語彙の難しさと文章の難しさは、必ずしも一致しない。難しい単語がたくさん出てくる英語の科学雑誌は、単語は難しくても文章はそれほど難しくない。一方、文学作品は微妙な表現が使われているため、単語が易しくても文章が易しいとは限らない。ぼんやり読んでいると、重要な「ほのめかし」を読み落としてしまう。

今回取り上げた2冊の Pride and Prejudice については、両方読み比べてみると面白いと思う。どちらか一冊しか読まないということなら、ページ数がやや少なく文体も易しめのオックスフォード版(ただし、単語はこちらのほうが少し難しい)をお勧めしたいが、両方読んでみるなら、最初にペンギン版から読んで、次にオックスフォード版で自分の読み落としを発見するのも楽しい。

2004.09.21

Graded Reader

英語学習者向けに書き直された Jane Eyre を図書館で見つけてから、Graded Reader と呼ばれている、この種の教材に興味がわき、少し前に、いくつか買って読んでみた。特に興味深いのは、同じ本を素材にしてふたつの出版社がそれぞれ違った要約をしている場合である。

今回読み比べたのは、ジェーン・オースティンの Pride and Prejudice である(Jane Eyre も両方から出ているのでアマゾンに注文している)。

Pride and Prejudice (Penguin Reading Lab, Level 5) は、2300語の範囲で書き直されていて 128ページあった。もう一方の Pride and Prejudice: Level 6 (Bookworms Series) は、2500語、104ページである。

また、以下で『オリジナル』として私が参照するのは、Pride and Prejudice (Penguin Popular Classics) である。小さな活字で299ページあった。

なお、たまに掲示板などで混同している人を見かけるが、Penguin Popular Classics と Penguin Readers は、ごらんのように全く別のものである。さらにややこしいことに、Penguin Classics というのがイギリスとアメリカから出ている。

Penguin Popular Classics は、古い本を写真製版で複製しているようで、値段が非常に安いかわり本によってはところどころ活字が欠けていることがある。幸い、Pride and Prejudice については特に問題はなかった。値段が安すぎてアマゾンでは定価に為替レートを掛けただけの値段で売っていたのでは利益が出ないのだろう、このシリーズに限らず、安すぎる本は、もとの定価に関係なく一律500円になっている。

どうでもいい話だが、私がこの本をアマゾンに注文した時、まだアマゾンはこの最低価格を導入していなかった。アカウントの記録を見ると251円とある。ほぼ同額の本を数冊、別の高価な本と一緒にまとめて注文したのだが、記録によれば、アマゾンは本が入荷するたびにばらばらに発送している。

アマゾンでは、海外からの取り寄せ品であっても発送前なら客はキャンセルできる。キャンセル料などはない。なので、おそらくアマゾン側としては、品物が全部そろうのを待っている途中でキャンセルされ他所に売れそうもないへんな在庫をかかえるよりは、入荷するたびにいちいち分納したほうがよいと判断したのかも知れない。しかし、1冊わずか250円の本をイギリスから取り寄せ、送料は請求せずに別々に納品していれば、そりゃ、売れば売るほど赤字だろう。最低価格を導入するわけだ。

さきに書いたように、Penguin Popular Classics は値段が安い代わり、たまに印刷の質が悪いものもある。アマゾンで買う限りは500円以下にはならないので、同じくらいの値段の他の出版社を探したほうがいいかも知れない。

ところで、Pride and Prejudice には、朗読のカセットテープもある。Pride and Prejudice (Audio Editions) は、省略なしの全文を、カセットテープ8本、11時間30分かけて朗読している。登場人物のセリフとして最初にでてくるのはベネット夫人のものであるが、脇役のベネット夫人の馬鹿っぷリが見事な楽しい作品である。

(もっとも、夫人は愚かではあっても悪人ではない。夫が死ねば財産を取り上げられるという厳しい環境にある以上、一刻も早く娘をどこかの金持ちに嫁がせなければならないと必死なのである。同情の余地はあるのだ。)

さて・・・ ここで、Penguin Readers版と Oxford Bookworms版の Pride and Prejudice それぞれの興味深い違いについて書くつもりだったが、余談の部分だけでかなりの長さになってしまったので、今日は、ひとまずここまでにして、続きは明日書くことにしたい。

2004.09.16

カランコエ その7

以前、ひとつ52円で買った見切り品のカランコエ、買ったときはさえない色合いで、「うすい黄色でところどころにピンク色の線が入る」という感じだったが、花が咲き変わるたびに、たまにしか入っていなかったピンク色の部分が広くなっていき、色も濃くなった。今では、花の中心部が赤で周辺が黄色の立派な複色咲きカランコエである。どういう条件で花色が変わるのか、よく分からないが、大きく育ってくれた上に花もきれいになってくれたので、とにかく嬉しい。

涼しくなったせいか、あちこちの店頭で再びカランコエを見かけるようになったが、今までよりかなり大きな鉢に盛りだくさんの花をつけたものが多い。当然値段も少し高めだが、それでも、去年の値段に比べれば安い。今日は、やや薄い山吹色を買った。ひとつ200円だったが、去年買った300円の鉢よりずっと大きい。結構なことだ。

レモン色、黄色、薄い山吹色、オレンジ・・・ といった微妙な花色の差は、実のところ、日当たりや肥料のせいで違っているだけで、実は同じものではないかという気もしないではない。八重咲など、まだ全く手を出していないバリエーションもあるが、買い足すのはこの辺で終わりにしようかと思っている。少なくとも今のところは。

2004.09.15

サービスパック2を当てると、パソコンが使えなくなった

月例のセキュリティ情報を読んで、そろそろ我が家のパソコンの WindowsXP にもサービスパック2を適用しようと思い、Windows Update を実行した。

・・・が、結局アンインストールすることになった。サービスパック2を適用したら、デスクトップ画面の何をダブルクリックしても、エクスローラーがクラッシュするようになったからだ。

デスクトップ画面に置いてあったどのプログラムのアイコンをクリックしても、あるいは、単なるテキストファイルをクリックしても、必ずエクスプローラーがクラッシュし、「マイクロソフトに報告します」というおなじみのダイアログが表示され、エクスプローラーが再起動する。何も実行できない。何も読めない。パソコンの再起動をしても、何も変わらない。

これはいったい、どういうことだ? もちろん、メールを読もうとしてアウトルック・エクスプレスのアイコンをクリックしても、ただクラッシュするだけである。なるほど、これならウイルスに感染することもありえない。セキュリティ強化は大いに結構だが、ちょっとやりすぎである。

幸いなことに、スタートメニューは生きていて、コントロールパネルを開くことや、そこから「プログラムの追加と削除」を選んで実行することはできたので、すぐにアンインストールした。サービスパック2は、あと半年くらい様子を見てから適用することにする。

2004.09.13

移動祝日

もうすぐ敬老の日である。かつては9月15日だったが、昨年から「9月の第3月曜日」になったので、15日から21日の範囲を移動することになった。今年は20日が敬老の日だ。実は私は第二月曜だと勘違いしていて、今日13日が休みだと思っていた。無断欠勤する前に気が付いたのが幸いであるが、期待していたものがおあずけにされたようで、何となく悔しい。

数年前、敬老の日が移動祝日化されようとしたとき、自民党の支持団体「老人クラブ連合」などから反対の声が上がった。敬老の日がただ休日をふやすだけのための道具にされるのはおかしいということだったらしい。「こういう由来がある日だからこそ、この日を祝うのだ」という理由で「祝日」にしたのであって、ただ「休日」を作りたくて敬老の日を作ったわけではないという立場からすれば、好き勝手に日付を変えられては困るというのも、まあ分からんこともない。

とはいうものの、以前、書いたように、星が見えそうもない梅雨のさなかに七夕をするのが今の日本である。しかも、敬老の日が9月15日というその日に決まった理由は明確ではなく、伝統的に15日だと決まっていたわけではない。日付は便宜的なものに過ぎない。菊の節句に由来しているという話もあるが、それなら9月9日(旧暦)である。

最初に9月9日が敬老の日になっていれば、その後の移動祝日化によって第2月曜日が休みになっていたはずであり、もしそうだったなら、今日が休みだったはずなのだが・・・ いや、今さら言っても始まらない。

9月にはもうひとつ祝日、秋分の日がある。太陽が秋分点にくるのはだいたい9月23日ごろであるが、うるう年があるという事実からもわかるように、地球が太陽の周りを一周するのにかかる期間は365日ちょうどではないため、22日から24日の範囲で移動する。秋分点が移動するというよりは、カレンダーのほうがずれているのだ。うるう年と同じでおおよそ4年周期で秋分の日は移動する。

地球はひとりで太陽の周りを回っているわけではなく月を引き連れている。という事実が、さらに話を複雑化している。天文学的にはこちらの問題のほうが興味深い話なので、最大の変動要因であるうるう年に言及することなく、「太陽と地球と月の3つが絡んでいるから、秋分の日は移動する」というような説明をする人をよく見かける。気持ちはよく分かるが、変動するものなら何でもかんでも「三体問題」や「カオス」の話で説明をつけてしまうというのは、何でもプラズマ現象で説明してしまうようなもので、あまりよい説明ではない。

さて、敬老の日が15日から21日を移動し、秋分の日が22日から24日を移動するということは、まれに両者が隣り合うということもあるわけだ。もし飛び石連休になれば、5月4日を休日化した法律の効力によって、その間の1日も休日になる。その時まで、今の法律が続いていてばの話だが。

国立天文台の話によれば、2009年に、そういうことが起こるらしい。この年は、9月21日が敬老の日、23日が秋分の日となるので、22日は休日になるはずだ。しかもカレンダーを調べてみたら、おお、20日は日曜ではないか。二つの祝日だけでなく、日曜までもが隣接するとは本当に珍しいこともあるものだ。

・・・と、ここまで書いて、敬老の日は第3月曜だと決まっているのだから、その前日が日曜なのは当たり前だと気が付いた。ううむ。大発見をしたと思った後の落胆は大きい。

2004.09.10

子供向けのカラフルな英語の辞書

少し前に、アメリカで子供向け(対象年齢8歳以上)に出版されているという辞書を買ってみた。Scholastic Children's Dictionary という辞書である。向こうでは子供向けの辞書の代表的なものらしい。全ページがカラー印刷の大きくてしっかりした本で、子供用なので収録されている単語の総数はそう多くないものの、機械や自然物に関する名詞の説明には単純明快なカラーイラストや写真を多用して非常に楽しい。

植物や動物は、単にイラストが載っているだけではなく、発芽や成長の過程を数枚の絵で説明していて、絵の中に描いてあるこまごましたものについて引き出し線をつけて名前を説明している。カエルの説明では、タマゴ、オタマジャクシ、カエルの絵があった。エンジンなどの複雑な機械については断面図が載っていて各部の名前がある。

また人の職業や服装などの説明にも具体的な写真やイラストがある。例えば、veterinarian(獣医)では、言葉による説明とともに写真がひとつ添えられていて、診察台の上に横たわった神妙な顔をしたふさふさの犬を相手に、獣医が聴診器をあてていた。ひと目見て、「動物の医者」だと分かる。百聞は一見にしかず。

非常によい本だと思うし値段も高くないので、英語の勉強を始めた初心者が試しに買ってみるのは悪くないと思う。日本の中学生が見ても十分に役に立つはずである。ただし、やっぱりこの本はあくまでもネイティブ用であり、かつ、子供用である。どちらかというと絵を見て楽しむ図鑑に近い。

絵が豊富なのはいいとして、単語の説明には、ノン・ネイティブが必要とする文法や語法の情報、例えば名詞の加算と不加算の区別や自動詞と他動詞の区別は書かれていないし、例文も少ない。もちろん、第2言語として英語を学ぶ人向けの辞書はほかにいくらでもあり、ネイティブの子供用の辞書にそういうものを要求するほうがおかしいし、私もそんなことをいう気はない。あなたが英語圏に住んでいて子供に与える教材として買うのであれば、最初の辞書として買い与えていいとは思うが、もしあなたが非英語圏に住んでいる英語を勉強中の大人で、自分の勉強のために買うのであれば、たぶん、これは最初に買うべきものではない。

この辞書は、4番目以降に買う辞書だと思う。高価な大辞典ではないのだから、何かのついでに気軽に買って暇なときにパラパラとながめていればいい。ついでながら、買うべき1番目というのは学習者向けの英和辞典、2番目は学習者向けの和英辞典、3番目は学習者向けの英英辞典。2番目と3番目は人によっては入れ替わるかも知れない。この3つは、電子辞書を買えば一台に全部入っている。

英語の勉強のしかたを教えているウェブサイトなどで、しばしば、「ネイティブの子供向けの本を読むとよい」を薦めているのを見かける。基本的には賛成だが、若干の問題はある。読み手が子供であり、かつ、まわりにちゃんとした英語を話す人間がいくらでもいる環境である場合に、そういう本は最大の教育効果をあげるのであって、いい年をした大人がひとり遠い外国で勉強するときにネイティブの児童書が最適とは限らない。

児童書を薦める人はまだいい。自分で読んで気に入った本を薦めているようだ。一方、掲示板などで、相手構わず誰にでも「TIME を読め」と自動的に推奨する人も時々見かけるが、「雑誌は色々ありますが、例えば Newsweek ではなく TIME を薦める理由は何ですか?」と聞かれると返事ができない。実はどちらも読んでいないらしい。自分が読んでいないものを人に薦めるとはどういう了見かと思う。

誰が作ったのか分からないが、「英語の勉強はこのようにしなさい」という教義があって、その言葉を機械的に唱えさえすれば英語の指導者を気取ることができるらしい。相手が何のために英語を勉強しているのか、どんな職業のどんな立場の人なのか確認することなしに指導しようとする。診察せずに処方箋を書くようなものだ。これはよくない。

幸か不幸か、現在の日本では、英語で書かれている本はいくらでも入手可能である。インターネットも使うことができる。1種類の本、あるいは、ひとつの雑誌だけで勉強しなければならないほど、英語の本が不足しているわけではない。日本の受験参考書もうまく使えば非常に役に立つ。

ある辞書について「これは4冊目以降に買うべきだ」というと、「辞書を4冊も買うのか?」という反応が返ってくることがある。4冊だろうが10冊だろうがどうでもいい。自分の役に立つかどうかを考えて、これは自分の役に立つものだと思うなら、買えばいい。面白いと思うなら買えばいい。買いたくない人は、もちろん買わなくていい。それだけの話である。世の中にあふれている資源をうまく組み合わせ、必要に応じてつまみ食いで勉強すればいいのだ。

2004.09.06

カランコエ その6

ここ最近気温が少し下がったせいか、カランコエの元気がいい。

今年買ったたものは、買ったときには花が咲いていても、8月中旬には大部分の花が終わり、枯れた花を取り除いてもしばらく花の補充のない状態になったのだが、また最近になってびっしりと花をつけるようになった。

去年買ったほうは短日処理などしていないので、プランターいっぱいにただ茂っていただけなのだが、この2週間くらいで急に大きくなり、今ではプランターからかなりはみ出している。ほうっておくと重みで茎が折れそうだ。茎のところどころから根も出ているので、適当に枝を整理して挿し木でもしようかと思うが、あんまり増やしすぎても収拾が付かなくなる。挿さずに捨ててしまえばいいのだが、それはそれで何となくもったいない。

先週、数ヶ月ぶりに実家に電話してみたところ、実家にあったカランコエは水のやりすぎでひとつ腐らせてしまったそうだ。同じ鉢に何年も植えっぱなしで根が詰まっていたのだろう。こっちにあるやつをいくつか送りつけてやろうかとも思うが、送料を考えるとたぶん向こうで普通に買うほうが安いに違いない。さてどうしたものか。まあ、急いでどうにかしなければならないような用事でもないし、そのうち考えよう。

2004.09.04

Jane Eyre その2

少し前に Jane Eyre について書いたが、先日図書館で、教材用に本の内容を要約したものを見つけたので借りてみた。洋販出版からラダーシリーズという名前で出ている英語教材の一つらしい。このシリーズの本は、使われている単語の数によって 1000~5000語の5段階に分類されている。ハシゴを上るように順に難しい本に取り掛かることができるということのようだ。

ただし、この本の注意書きによると、1000語で書かれているという本でも、1000語に含まれている単語から作られる合成語や派生語は使っているそうだ。何となく Basic English を思い出させるルールだが、派生語の作るための接頭語と接尾語の種類はずっと多い。同レベルに分類されていても、使われている単語の範囲や難易度は本によってかなり違うかも知れない。

単語のランク付けに使われているのは、The New Horizon Ladder Dictionary という学習用の辞書で、amazon.com にある内容見本を見ると、単語の見出しの横に1から5までの数字がつけられていて、無印のものも含め6つの段階が示されていた。

このラダーシリーズの本が、最初から日本人向けに書かれたものなのか、それとも、すでにあった教材を海外から買ってきて5段階に分類したものなのかは分からないが、いずれにせよ、出版社はひとつ重要な方針を定めているらしい。それは、『原作の中で起きていることをカットしたり、話を変えたりはしない』ということだ。

この Retold 版 Jane Eyre を一通り読んでみてちょっと驚いたのだが、確かに、わずか120ページの中で原作中にあるほとんど全ての事件が確かに起こっていた。本のページ数も1ページあたりの語数も減っているので、全体として原作の8分の1くらいの語数になっているが、ストーリーの変更は何もない。細かい風景の描写はカットし、登場人物たちの感情と性格を表す会話部分はあまり短くしないというような工夫があり、機械的に短くしているわけではない。

もっとも、作中で起きた事件をどれも捨てずに残している、という意味では、機械的、形式的な要約である。さすがに8分の1に短縮してしまうと、雰囲気は変わる。原作の方ではかなり時間をかけて進行していた事件が次々と起こるし、登場人物の言葉は直接的だ。

もともと主人公のジェーンは表立って感情を表さないのだが、まれにしかないはずの感情をあらわにする場面はストーリー上の重要なポイントなので優先的に残されている。このため、他人への自己主張がオリジナルより目立つ。原作にある宗教的な色彩もおもに登場人物たちの会話の部分に現れていたので、会話を優先した要約の結果、宗教色が強調されているような気がしないでもない。また、ロチェスターのジェーンに対する惚れ込みようは、エルフうんぬんといった少々現実離れしたセリフに現れていると思うので、その辺のセリフが全ての場面から除かれているのは残念だ。

細かい不満としては、誤植がたまにあるということ。58ページの最初の行にある Ms Fairfax は、Ms Ingram の間違いだ。善人役と悪人役の名前を取り違えては困る。読んでいてびっくりし、確認のため原作を本棚に取りに行ったほどである。今売られているものでは修正されているといいのだが。重大なミスは、たぶんここだけだと思う。

ミスはともかく、何を優先し何を削るかという点については、これだけ短くするならどうやっても不満は残るだろう。書き直しをした Diane Gruenstein という人は、いい要約をしていると思う。願わくば、この本を読んでオリジナルを読んでみたいと思う人が現れんことを。

2004.09.02

Basic English の周辺にある危険なこと

以下に書くことは、おそらく、何十年も前から他の人によって言い古されていることの蒸し返しに過ぎないだろうが、Basic English を勉強し始めて気になったことである。ただし、主題は英語学習全般に関する疑問であって、Basic はたまたま気になったものの一つだという程度の話だ。問題があるからといって、Basic English を排除したいわけではないし、そんなつもりなら、そもそもこの場に何度も Basic English の話を書いたりはしない。

さて、英語の新聞や雑誌を普通に読めるようになるには、最低でも1万語以上の単語を知っていなければならないと言われている。たぶんもっと必要だろう。派生語や合成語によって数千語に増やせるとは言っても、Basic English の知識だけで世に中に転がっている英語の文献を読めるようになるわけではない。もちろん、そんなことは Basic English の支持者だって言っていない。もともと、Basic は、英語を母語としない人たちの間で使う国際補助言語として作られたものだ。

だがしかし、納得のいかないことがある・・・

私は中国語を知らない。私が中国人と会話するとき、たまたま二人とも英語を話せたから英語で討論したとする。その場に英語のネイティブはいない。最も重要なのは、討論している当事者二人にとって理解しやすく誤解の少ない言葉と文法を使うということであって、そこにいない誰かにとって自然であるかどうかは、とりあえずどうでもいい。

ネイティブに理解不能な英語なら、さすがにそれは問題だと思うが、国際補助言語ということなら「ネイティブから見ても自然な英文を作れます」というのは、優先度としては2番目のはずだ。最優先すべきは、ノン・ネイティブとって読みやすく書きやすいということでなければならない。

語彙制限のおかげで Basic English は、読むのは簡単である。しかし、書くのは決して簡単ではない。もともと、他人から与えられたものをただ読むのと、自分の頭の中で漠然と考えていることを文章という形で頭の外に整理しつつ固定するのとでは、難易度に差があるのは当然のことで、日本語でも英語でも、Basic であろうがなかろうが、作文は難しい。しかし、そうはいうものの、Basic English が課している制限が作文をより難しくしていることは否めない。

H.G. Wells や G.B. Shaw など、イギリスの文化人たちは、Basic English という発明を好意的に評価した。そりゃそうだろう。連中はネイティブの中においても卓越した英語の使い手であるから、やっかいな制約の中でも何とかやりくりできたに違いない。

語彙制限のため、一語の動詞の代わりに基本動詞+副詞からなる句動詞を使う必要があるというのは、実のところ大した問題ではないと思う。熟語的なものもあるにはあるが、かなりの句動詞は個々の単語の意味から全体の意味を類推できる。それに、最終的に普通の英語に移行するのであれば、遅かれ早かれ覚えなければならない。

もう少し気持ち悪いのは、「通常は動詞として使える単語が、語彙のリストに入っているにもかかわらず Basic では動詞として使用することが禁じられていて、しかも、禁止しておきながも -ing や -ed で派生語を作ることは許されるので、現在進行形や受動態という形にすれば実は使うことができる。」という、面白いが理不尽なルールである。

このルールが本当にノン・ネイティブにとって有用かというと、私にはそうは思えない。率直に言って、look や run さえも名詞としてしか使えないというのは、ネイティブにもノン・ネイティブにも不自然だと思う。その制約の中で苦し紛れにいろいろな文章を作ってみて、ネイティブのインフォーマントに「どれが許容できるでしょうね?」と、お伺いを立てるというのでは本末転倒である。

動詞として look を使えないので、He looked at her quickly は例えば He gave her a quick look になる。後者は、日本人にとって分かりやすいだろうか?

それに対する言い訳は、「こういう表現は『自然な』英語です」というものだ。さて、誰にとって自然なのだろう? もちろんネイティブにとってである。おやおや? ノン・ネイティブたちが会話するための補助言語という触れ込みなのに、なぜゆえにネイティブにとって自然かどうかという議論が出てくるのだろうか? これは、Basic English の設計のよしあしなどより遥かに重大な問題を含んでいる。私が中国の数学者と意見を交換しているときに、なぜゆえに、その場にいないアメリカ人やイギリス人の顔色を伺わなければならないのだろうか?

それに対する正当化の理屈はいくらでもつけることができる。「仲間内で通じさえすればいい」という発想で何も規範を置かないでいれば、本当に仲間内でしか通じない隠語や方言になってしまう可能性はある。それでは、何のための国際補助言語か分からない。しかし、規範の根拠を英語を母語とする人たちの習慣や感情に求めるのであれば、結局のところそれは、昔から外国語教育の場で繰り返し言われている英語帝国主義に行き着くことになる。

日本で出版されている Basic English のテキストを読んでいると、Basic English そのものが目的化していて、こういう現実感が希薄であるばかりか、「アメリカ人が Basic を使ってくれれば日米の政治問題が緩和するだろうに」などという、驚くほど生ぬるいことを書いてあったりする。悪いけど、先生、本末転倒ですよ。

外国人との対話を求めて Basic を使う気になるようなアメリカ人なら、初めから政治問題がこじれたりはしない。残念ながら、そんなタイプの人は選挙で落とされる。政治問題がこじれるのは、そもそも問題解決を望まない人がいるからであり、そういう人は、たとえ流暢な英語で話しかけられてもはじめから外国の言うことなど聞くつもりはない。日本人だってそうだ。

外国の文化に興味を持ち、外国人と対話したいと望んでいるアメリカ人ももちろんいる。しかし、当然だが、そういう人は Basic English ではなく、相手国の言語を学ぶ。「日本人の話を聞きたいから Basic English を勉強します。教えます。」というアメリカ人が万一いるなら、そいつはバカである。それは、「日本人に発言してもらいたいから、日本人にアメリカ英語を教えます」というよりもタチが悪い。後者は、少なくとも日本人を仲間に入れようという意思があるだけマシである。

英語圏にある会社で働くことを目的として英語を勉強していて、最終的には普通の英語に移行するという前提で、日本人が Basic English を勉強しているのであれば、このへんの話は何も問題ではない。ネイティブに混ざって話すのだから、ネイティブから見て自然な英語を目指すのは当たり前だ。帝国主義でも何でもない。

最終目標が、英語のネイティブと意思疎通を図るということにあるなら、Basic English は有益な英語教材の一つではあっても、それ以上のものにはなりえない。アメリカ政府が流している VOA のニュースのように、宣伝目的で易しい英語を使ったゆっくりした音声の放送をすることはあるが、政治や経済を討論する場において、アメリカ人が日本人と議論するために Basic を使う可能性はない。強制もできない。強制されるなら、それは彼らにとって G. Orwell のいうニュースピークであり、それくらいなら、日本語の通訳を雇った上で言いたいように英語を使うほうがましである。通訳は金で雇えるが、Basic は自分で勉強しなければならない。通訳を雇う気がなく英語で押しまくる人物なら、Basic を使う可能性はなおさらない。

現実的な話として、Basic であろうがなかろうが、どうせ英語を勉強している人たちの大半はアメリカ人の相手をするために勉強しているのだから、私が今ここで述べているようなことはどうでもいい話だろうとは思う。普通の英語について勉強するさいの通り道としてであれば、Basic はかなり役に立つ。トレーニングの一種として Basic をやればよい。その上で、ノン・ネイティブも読む可能性のある文章を書くときの配慮として、Basic English のアイデアを参考にするのもいいだろう。Basic English に完全に従う必要はないのであって、役に立つ部分をうまく活用すればいいのである。

問題は、なぜ自分は、英語、あるいは Basic English を勉強しようとしているのか、そしてそれを他人に教えているのかという意識をちゃんと持っているかどうかである。別に趣味でも構わない。Basic English の課す制約の中で英文を組み立てるというのは、きちんと韻を踏んだ詩の作るのにも似た知的な活動であり、そういう趣味を持っている人を私は尊敬する。

もちろん、これは Basic に限った話ではない。英語の公用語化だの小学校への導入を主張している人たちは、いったい何をどうしたいのか、そしてその結果どうなるのか。まともに考えているとは、私には思えない。

勉強の理由は何でもよい。好奇心を満たすのは人間の本能的な喜びであり、実利を求めるばかりが勉強の目的とは限らない。もちろん実利を求めるのも大いに結構。ただ、なんにせよ、自分が何をやっているのかは、ちゃんと考えたほうがいい。

2004.09.01

合理的な行動の不合理な結末

少し前のことだが、本棚の整理をし不要な本を処分しようとしたときのこと、捨てるのももったいないと思い、汗をかきかき古本屋まで持っていった。が、何となく店主の態度が気に食わない。買い叩かれたわけではなかったが、妙に横柄な感じがして気分が悪い。そこで、売るのは中止し、再び汗をかきかき自宅まで持って帰る。そして、翌日燃えるゴミに出す。我ながらバカなことをしている。

気に食わないやつが利益を得るくらいなら、自分が得られるはずの利益を捨ててでもそれを阻止しようという、不合理な行動を取るのはなぜだろうか? そんなことをしても自分には何の特にもならないのに? 単純に言えば、取り引きによって得られる満足度とは別の、より優先度の高い不満が心の中に沸き起こっていて、金銭によって得られたはずの満足度を打ち消しているわけである。

得られる金額が大きければ、少々不快な思いをしても取り引きに応じるかも知れないし、はした金ならサヨナラである。不快感にも値段があるのだ。今回はたまたま、本の売値より不快感の買値のほうが高かった。

私物の古本をどう処分するかという、個人的で些細な問題であれば、取り引きの成功による利益も破談による損失も自分自身が負担するだけのことである。重い本を抱えて自宅と古本屋を往復したのは私であり、他人に迷惑をかけたわけでもない。店主を数分間煩わせたかも知れないが、まあそれくらいは大目に見てもらおう。

一方、もしこれが、会社の内部、あるいは会社間での仕事にまつわる取り引きの場合はどうだろうか。仕事上の取り引きに私情を交えるのはもちろんよくないことだが、実際に変な行動には至らなかったとしても、「あいつに手柄を立てさせるくらいなら、オレは自分の成績を落としてでも・・・」という感情に、本当に一度もなったことはないという会社員は、おそらく非常に少ないと思う。

ここで恐ろしいのは、取り引き成立による利益は会社のものであり、一方、取り引きの途中に味わう(かも知れない)不快感は担当者個人が受け持つことになるという点である。会社に1億円の利益をもたらす取り引きでも、担当者個人がマイナス100万円相当の精神的ダメージをうけるとしたら、その人は取り引きを進めるだろうか?

自分が1億円もらえるというなら、100万円の不快感は埋め合わせることができるに違いない。また、そんな景気のいい話じゃないとしても、仕事をサボった結果として解雇されようものなら金銭的精神的被害は100万円どころでは収まらないから、おそらく、100万円の不快感を味わっていても仕事は進めるのが普通だ。雇われる身はつらい(もっとも、ものには限度があるので、度重なれば辞表を叩きつけることになるだろう)。

しかし・・・ もし、解雇される心配はないとしたら? 仕事の流れを止めても自分の身は安全だとしたら?

自分の立場が安全であるなら、ほんの些細な個人的満足感を満たすために、あるいは不快感を避けるために、社員の行動が左右され、その結果会社に壊滅的な損害が発生することは十分ありうる。会社が損害を受けても本人の懐は痛まないので、自営の商売人同士であれば当然働くはずの打算による自己抑制が働かない。法律で縛られている公務員より、民間企業のほうが、ひとたび暴走したときの壊れようはひどいかも知れない。

社外の第三者からみれば、会社はひとかたまりの存在なので、これは内部矛盾を抱えた愚かで不合理な行動である。しかし、会社の内部にいる当事者にとっては、個人の利益を最大化する合理的な行動である(少なくとも短期的には合理である)。与えられた社内環境に適応し各人が合理的に行動した結果として、プロジェクトが壊滅する。不合理でも何でもない。

会社のプロジェクトが天変地異によって外から潰されることは少ない。潰れるべき要因がプロジェクトの置かれている環境に内在しているとき、自動的に、滑らかに、そして留まることなく自滅メカニズムが動作し、プロジェクトは崩壊する。メカ二ズムの挙動は極めて合理的であり、崩壊の行く末は予想可能である。みんな、このままでは破滅することを感じているが、どうすることもできない。

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