« 合理的な行動の不合理な結末 | トップページ | Jane Eyre その2 »

2004.09.02

Basic English の周辺にある危険なこと

以下に書くことは、おそらく、何十年も前から他の人によって言い古されていることの蒸し返しに過ぎないだろうが、Basic English を勉強し始めて気になったことである。ただし、主題は英語学習全般に関する疑問であって、Basic はたまたま気になったものの一つだという程度の話だ。問題があるからといって、Basic English を排除したいわけではないし、そんなつもりなら、そもそもこの場に何度も Basic English の話を書いたりはしない。

さて、英語の新聞や雑誌を普通に読めるようになるには、最低でも1万語以上の単語を知っていなければならないと言われている。たぶんもっと必要だろう。派生語や合成語によって数千語に増やせるとは言っても、Basic English の知識だけで世に中に転がっている英語の文献を読めるようになるわけではない。もちろん、そんなことは Basic English の支持者だって言っていない。もともと、Basic は、英語を母語としない人たちの間で使う国際補助言語として作られたものだ。

だがしかし、納得のいかないことがある・・・

私は中国語を知らない。私が中国人と会話するとき、たまたま二人とも英語を話せたから英語で討論したとする。その場に英語のネイティブはいない。最も重要なのは、討論している当事者二人にとって理解しやすく誤解の少ない言葉と文法を使うということであって、そこにいない誰かにとって自然であるかどうかは、とりあえずどうでもいい。

ネイティブに理解不能な英語なら、さすがにそれは問題だと思うが、国際補助言語ということなら「ネイティブから見ても自然な英文を作れます」というのは、優先度としては2番目のはずだ。最優先すべきは、ノン・ネイティブとって読みやすく書きやすいということでなければならない。

語彙制限のおかげで Basic English は、読むのは簡単である。しかし、書くのは決して簡単ではない。もともと、他人から与えられたものをただ読むのと、自分の頭の中で漠然と考えていることを文章という形で頭の外に整理しつつ固定するのとでは、難易度に差があるのは当然のことで、日本語でも英語でも、Basic であろうがなかろうが、作文は難しい。しかし、そうはいうものの、Basic English が課している制限が作文をより難しくしていることは否めない。

H.G. Wells や G.B. Shaw など、イギリスの文化人たちは、Basic English という発明を好意的に評価した。そりゃそうだろう。連中はネイティブの中においても卓越した英語の使い手であるから、やっかいな制約の中でも何とかやりくりできたに違いない。

語彙制限のため、一語の動詞の代わりに基本動詞+副詞からなる句動詞を使う必要があるというのは、実のところ大した問題ではないと思う。熟語的なものもあるにはあるが、かなりの句動詞は個々の単語の意味から全体の意味を類推できる。それに、最終的に普通の英語に移行するのであれば、遅かれ早かれ覚えなければならない。

もう少し気持ち悪いのは、「通常は動詞として使える単語が、語彙のリストに入っているにもかかわらず Basic では動詞として使用することが禁じられていて、しかも、禁止しておきながも -ing や -ed で派生語を作ることは許されるので、現在進行形や受動態という形にすれば実は使うことができる。」という、面白いが理不尽なルールである。

このルールが本当にノン・ネイティブにとって有用かというと、私にはそうは思えない。率直に言って、look や run さえも名詞としてしか使えないというのは、ネイティブにもノン・ネイティブにも不自然だと思う。その制約の中で苦し紛れにいろいろな文章を作ってみて、ネイティブのインフォーマントに「どれが許容できるでしょうね?」と、お伺いを立てるというのでは本末転倒である。

動詞として look を使えないので、He looked at her quickly は例えば He gave her a quick look になる。後者は、日本人にとって分かりやすいだろうか?

それに対する言い訳は、「こういう表現は『自然な』英語です」というものだ。さて、誰にとって自然なのだろう? もちろんネイティブにとってである。おやおや? ノン・ネイティブたちが会話するための補助言語という触れ込みなのに、なぜゆえにネイティブにとって自然かどうかという議論が出てくるのだろうか? これは、Basic English の設計のよしあしなどより遥かに重大な問題を含んでいる。私が中国の数学者と意見を交換しているときに、なぜゆえに、その場にいないアメリカ人やイギリス人の顔色を伺わなければならないのだろうか?

それに対する正当化の理屈はいくらでもつけることができる。「仲間内で通じさえすればいい」という発想で何も規範を置かないでいれば、本当に仲間内でしか通じない隠語や方言になってしまう可能性はある。それでは、何のための国際補助言語か分からない。しかし、規範の根拠を英語を母語とする人たちの習慣や感情に求めるのであれば、結局のところそれは、昔から外国語教育の場で繰り返し言われている英語帝国主義に行き着くことになる。

日本で出版されている Basic English のテキストを読んでいると、Basic English そのものが目的化していて、こういう現実感が希薄であるばかりか、「アメリカ人が Basic を使ってくれれば日米の政治問題が緩和するだろうに」などという、驚くほど生ぬるいことを書いてあったりする。悪いけど、先生、本末転倒ですよ。

外国人との対話を求めて Basic を使う気になるようなアメリカ人なら、初めから政治問題がこじれたりはしない。残念ながら、そんなタイプの人は選挙で落とされる。政治問題がこじれるのは、そもそも問題解決を望まない人がいるからであり、そういう人は、たとえ流暢な英語で話しかけられてもはじめから外国の言うことなど聞くつもりはない。日本人だってそうだ。

外国の文化に興味を持ち、外国人と対話したいと望んでいるアメリカ人ももちろんいる。しかし、当然だが、そういう人は Basic English ではなく、相手国の言語を学ぶ。「日本人の話を聞きたいから Basic English を勉強します。教えます。」というアメリカ人が万一いるなら、そいつはバカである。それは、「日本人に発言してもらいたいから、日本人にアメリカ英語を教えます」というよりもタチが悪い。後者は、少なくとも日本人を仲間に入れようという意思があるだけマシである。

英語圏にある会社で働くことを目的として英語を勉強していて、最終的には普通の英語に移行するという前提で、日本人が Basic English を勉強しているのであれば、このへんの話は何も問題ではない。ネイティブに混ざって話すのだから、ネイティブから見て自然な英語を目指すのは当たり前だ。帝国主義でも何でもない。

最終目標が、英語のネイティブと意思疎通を図るということにあるなら、Basic English は有益な英語教材の一つではあっても、それ以上のものにはなりえない。アメリカ政府が流している VOA のニュースのように、宣伝目的で易しい英語を使ったゆっくりした音声の放送をすることはあるが、政治や経済を討論する場において、アメリカ人が日本人と議論するために Basic を使う可能性はない。強制もできない。強制されるなら、それは彼らにとって G. Orwell のいうニュースピークであり、それくらいなら、日本語の通訳を雇った上で言いたいように英語を使うほうがましである。通訳は金で雇えるが、Basic は自分で勉強しなければならない。通訳を雇う気がなく英語で押しまくる人物なら、Basic を使う可能性はなおさらない。

現実的な話として、Basic であろうがなかろうが、どうせ英語を勉強している人たちの大半はアメリカ人の相手をするために勉強しているのだから、私が今ここで述べているようなことはどうでもいい話だろうとは思う。普通の英語について勉強するさいの通り道としてであれば、Basic はかなり役に立つ。トレーニングの一種として Basic をやればよい。その上で、ノン・ネイティブも読む可能性のある文章を書くときの配慮として、Basic English のアイデアを参考にするのもいいだろう。Basic English に完全に従う必要はないのであって、役に立つ部分をうまく活用すればいいのである。

問題は、なぜ自分は、英語、あるいは Basic English を勉強しようとしているのか、そしてそれを他人に教えているのかという意識をちゃんと持っているかどうかである。別に趣味でも構わない。Basic English の課す制約の中で英文を組み立てるというのは、きちんと韻を踏んだ詩の作るのにも似た知的な活動であり、そういう趣味を持っている人を私は尊敬する。

もちろん、これは Basic に限った話ではない。英語の公用語化だの小学校への導入を主張している人たちは、いったい何をどうしたいのか、そしてその結果どうなるのか。まともに考えているとは、私には思えない。

勉強の理由は何でもよい。好奇心を満たすのは人間の本能的な喜びであり、実利を求めるばかりが勉強の目的とは限らない。もちろん実利を求めるのも大いに結構。ただ、なんにせよ、自分が何をやっているのかは、ちゃんと考えたほうがいい。

« 合理的な行動の不合理な結末 | トップページ | Jane Eyre その2 »

英語」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: Basic English の周辺にある危険なこと:

« 合理的な行動の不合理な結末 | トップページ | Jane Eyre その2 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ