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2004.08.19

努力家を天才と呼ぶのは侮辱である

数年前のことだが、ある若いイラストレーターが、自分のホームページで嘆いていた。「自分が苦労して描いた絵を、専門学校の同級生が評して、『天才』と言った。さんざん練習を積み重ね、やっとここまで到達できたものを、『天才』という一言で切り捨てられた。もう、死にたい。自分は、この程度の絵ではだめだ、もっと勉強しなくてはすぐにプロの世界から脱落すると必死なのに、こいつは何を考えて学校に来ているんだろう。」と。

さもありなん。その同級生は、練習や勉強の重要性をまるで感じていないというわけだ。だから、他人が努力して現在の技量を身につけたとは思わず、ひとこと「才能があっていいね」で済ませてしまうわけである。

私は、たまたま、このイラストレーターが全くの素人であった時代に彼のホームページを見つけ、ときどき見ていた。最初はどこにでもある素人の落書きだった。私は絵描きでも何でもないただの見物人だが、数年間見ているので、彼が少しずつ段階を技能を身につけていった進歩の過程を知っている。だから、彼の悔しさは理解できるつもりだ。彼は、ひとつずつ技法を身につけやっとここまでたどりついたという努力の積み重ねに一切注目されることなく、まるで成金の息子が親からの遺産で金持ちになったかのように言われてしまったのである。しかも、本人は、「まだ努力が足りない。もっと勉強しなくては」と思っていたのだから、悔しさはひとしおだったろう。

同様な嘆き声は別の絵描きさんからも聞いたことがあるし、語学や科学など別の分野でも聞いたことがある。

率直な話、これは、ある程度はどうしようもないことである。自分が力を注いでいることがらについて、他人が興味を持っているとは限らない。興味のない人は、目の前にある結果だけを見て適当にほめ言葉を投げかけるだけであり、当人の苦労など知ったことではない。「よくわからんが、とりあえず天才呼ばわりしておけばよかろう」という程度にしか考えない。苦労を知って欲しいと本人が思っていても、他人には伝わらない。苦労を分かち合えるのは、同じ苦労をしてきた同業者とだけである。(冒頭の話については、相手が、苦労がわからないはずのない、同じくプロを目指すはずの者だったがゆえに、当人はなおさら大きなショックを受けている。もっとも、専門学校は温度差の非常に激しいところでもあるのだが。)

人をほめるというのはかなり難しい行為である。ある人物が作った「もの」をほめるのと、その人物のプロとしての才能をほめるのとでは、話が全く違う。ものをほめることについては、社交辞令で適当なことを言っても比較的安全だが、人間をほめるというのは大げさに言えば相手の人格や人生に関わることだから、いい加減なほめ言葉は結果として相手を侮辱することになりかねない。本人が天才呼ばわりされることを望んでいると事前に確認できていないかぎり、天才呼ばわりは避けたほうがよい。もちろん、本人が望んでいる場合なら、おおいに天才呼ばわりして満足させてやればよい。しかし、努力家にとってそれは拷問である。

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