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2004.08.30

NEGIMA その2

先日紀伊国屋書店で買った NEGIMA が、いろいろな点で面白かったので、2巻めを日本のアマゾン・ドットコムから取り寄せてみた。偶然だが、今月発売されたばかりの新刊らしい。すでに、3巻から5巻までの発売スケジュールも確定しているようだ。

読んでいてすぐに気がついたのだが、擬音の訳し方が1巻目とは少し違う。2巻のほうが、いくぶん説明的な感じがする。例えば、登場人物が驚いている場面。日本語では単に顔が赤くなっていることを意味する「カァ」という文字が書いてあるのに対し、その英訳は "Jaw drop" になっている。また、パソコンの電源を入れた場面の起動音「ジャーン」には、"Windows theme" と書いてあったりした。なぜかなと思ったら、訳者が1巻めとは違う。

英語の jaw drop(jaw drop open ともいう)は、非常に驚いているという意味だ。おそらく、びっくりして口をぽかんとあけている様子からきた熟語だろう。昔見たアメリカのアニメ、たとえばトムとジェリーなどでは、登場人物たちが仰天するたびに、しばしば記号的映像表現として下あごが床まで落っこちていた。熟語の表現を文字通りの絵にしてみせるというのは、日本のマンガにもよくあると思う。

ところで、起動音の「ジャーン」は、マッキントッシュではないのだろうか? そう思ってマンガのコマをじっくり観察してみると、やはりマックを起動するときに表示される小さな顔マークが描き込んである。これは実にケシカラン誤訳だ。だいたい、描かれているキーボードには押しボタン式の電源スイッチがあるから・・・ ああ、いやいや、こんなことを攻撃するとバカだと思われるのでやめておく。(それに、この回の扉絵のほうは、Windows のデスクトップ画面だった。作者も適当に描いているのである。)

さて、このパソコンが出てくる回に、ちょっと面白い表現があった。女の子が自分の写真をデジタルカメラで撮った後に、"Then I photoshop my skin. Get rid of pimples and such." と言っている。 ここで動詞として使われている photoshop とは、パソコン用の画像処理ソフトの名称だ。その名の通り、昔は写真屋さんがフィルムや印画紙に対してやっていた写真の加筆修整を、コンピュータの画面上で電子的にやるためのソフトである。というわけで、彼女は「肌をフォトショップで修正する」わけである。

なお、Photoshop の開発販売元である Adobe Systems のガイドラインのページには、「商標は一般動詞じゃないぞ」「所有格(Photoshop's)もだめ」などのような注意書きがある。しかし、検索エンジンで photoshopped や photoshopping という単語を探すと、お気の毒なことにいくらでも見つかる。

英語は何でも動詞にする。

2004.08.29

リンゴの葉

リンゴの中の種が根を出していたので、特に期待することもなく鉢に植えてみたところ、何事もなく芽を伸ばし双葉が開き、今では小さな本葉も生えている。サクラの葉を思わせる周辺がぎざぎざの葉で、表面にきれいな光沢がある。リンゴとサクラは、どちらもバラ科の植物なので、葉の形が似ていても不思議はないのかも知れない。美しいが食えないものの代表のように言われるバラだが、キイチゴもナシもバラ科であり、目も口も楽しませてくれる多彩な顔ぶれのファミリーである。

我が家で芽を出したこのリンゴは、かりにうまく育って実をつけたとしても、売っているリンゴと同じものにはならないはずだ。なぜなら、これは「雑種」だから。リンゴに限った話ではなく、多くの植物が、自分自身の花粉を受粉した場合の結実を邪魔する自家不和合性という面白い仕組みを持っている。近親交配を防ぎ遺伝的多様性を保っているのだ。品種が同じ別の木の花粉をつけても、遺伝子はほとんど同じなので、やはり結実する確率は低い。確率を高めるには、他の品種の花粉が必要になる。園芸の入門書には、「もしリンゴを育てるなら、受粉の相性のよい品種の組み合わせを同時に用意すること」という注意書きがある。

自家不和合性というのは程度問題なので、観賞用の小さなリンゴなどには自家受粉でも実を結びやすいものもあるが、スーパーで売られている普通のリンゴなら、農家の人が用意した「相性のよい別品種のリンゴ」の花粉によって実ったもののはずだ。つまり、中の種は雑種である。

いや、別に、このリンゴを育てて何をどうしようという目論見があるわけでもないし、雑種でも一向に構わない。だいいち実がなるまでに何年かかることやら。とりあえず観葉植物代わりに育ててみようと思う。

2004.08.28

スイカと Basic English

7月2日書いた文章の中で紹介した、『ベーシック・イングリッシュ再考』という本の43ページに、Basic English に関する的外れな攻撃の例としてこういう話が載っている。

「Punch 誌上ではしばしばベーシックをパロディー化し、わざと奇妙な英語にしたものを読者から募集して載せていた。Large のあげた例では、スイカのことを "large green fruit with the form of an egg and a sweet red inside" と表していた。Richards はこのようにベーシックをよく調べもしないで驚くほど間違った記述がなされ、それがまたベーシックをほとんど知らない人々によって広がっていってしまったことを後年大変残念がって記している。」

(この Punch 誌とは、時事問題などについて、かなりシャレのきついマンガや文章を載せるイギリスの風刺雑誌のことだと思う。19世紀の中ごろにイギリスで創刊された雑誌で、日本語の「ポンチ絵」という言葉も、この雑誌の名前に由来しているらしい。)

さて、正直な話、私は上に引用したスイカの説明を見たとき、そんなに奇妙だとは思えなかった。スイカとはどんなものかという具体的で分かりやすい内容であり、大いに結構ではないか。今の学習者向け英英辞典に載っている語義の説明だって似たようなものだ。例えば、コウビルドの説明はこうである: "A watermelon is a large round fruit with green skin, pink flesh, and black seeds."

というわけで、Punch 誌に載ったというこの文だけを見ても、特に Basic English に対する批判や攻撃であるようには思えない。

しかしながら、この "large green fruit..." が「雑誌が読者から募集した、わざと長ったらしく説明的に書いた例である」という事実には触れないでおいて、この文をコピーし、わざと変な英作文をしてみせて「Basic とは、こんな変なものだ」というような記事を雑誌に書いている京都大学の先生がいた。それはアンフェアな攻撃というものである。しかも 1940年代の話ではない。なんと今年の話だ。

私は、この人物は、意図的に出典を隠したわけでもなければ、悪意を持って Basic English を批判・攻撃したわけでもないだろうと思う。英語を商売にしている人ならともかく、この人には取り立てて Basic English を攻撃する動機はないはずだ。そもそも、その記事の内容は人工言語全般に関するもっと広い話題を扱っているものであって、Basic English は枝葉の一つとしてたまたま触れているに過ぎない。

とはいうものの、どうせ記事の本題とは関係ないのだから、事実を調査せずに変なことを書くくらいなら、余計な枝葉は最初から落としてしまうほうがいい。本題と関係ないことを書いて、せっかくの記事の信頼性を落とすことは私なら避けたいところだ。

50年前に記事を書いたならいざ知らず、現在ならインターネットで30分も調べればかなりの情報が手に入るはずだが、原稿を書くにあたってそういうことをしない。これは学者としてはいかがなものか? と、いう気がかなりするのだが、どうせ学会論文じゃあるまいし、通俗的な雑誌の埋め草というくらいに気軽に書いているのかも知れない(調べた上で故意に書いているなら、もっと罪は重い)。

もともとの出典はかなり古い。まさか、今ごろ Punch 誌からコピーしてきたとは思えないので(万一そうなら歪曲は故意だということになる)、そのへんに転がっていた孫引きの本からの孫引きだろう。そういうコピーがいくつもあるからこそ、冒頭に引用したような嘆き声が存在するのだ。実際、私は、20年くらい前に別の単語について似たような例を聞いたことがある。その前には、さらに別の人から、和訳された変な例(英語の原文はない)を聞いたような気がする。

そして・・・ 今年発売された雑誌を見た誰かさんが、いつかまたこれを孫引きして、Basic English に関する面白おかしい解説を書くに違いない。なぜなら、みんな面白い話が好きだから。

こういう「学者がへんてこりんな考えに取り付かれて失敗する」というストーリーは、ある種の都市伝説と通ずるものがあり、真実はともかく話し手や聞き手の期待と願望が込められている。雑談として楽しむ限りは罪のないものであるし、まあいいではないか。需要あるところに供給あり。「ヤツらは専門バカであり、オレたちは常識人だ」というのは、少なくとも人種差別や宗教差別を内包しているジョークよりはマシだ。私は、50年後に同じスイカの話を聞いても驚かないと思う。

今回の Basic English の件は悪意がない(に違いない)ので、たいしたことではない。英語全般について見渡せば、日本人がやりそうもない英語の誤用例を面白おかしく取り上げて、英語の勉強をしている人を笑いものにするような、遥かにタチの悪い本も出版されている(もちろん、誠実な立場から英語の誤用例を論じている本もある)。しかも、間違いとされているものが、実際にはアメリカで日常的に使われていたりするから情けない。あまりいい気持ちはしないが、しかし、こういう本の読者は、もともと英語を勉強する気などなく、単に酒の上での笑い話として本から仕入れた話を友人知人に語って聞かせるだけである。読者への実害はおそらくない。

しいて危険性を挙げるとすれば、この種の本はたいてい、「学校で教える英語は嘘だ」という読み手の願望を刺激するように書かれているので、これにひっかかった読者が、学校での教育の邪魔をする可能性はあるかも知れない。もし、私が英語教師であって、自分の教えている生徒や親がそういう本に毒されてしまったのであれば、私は何とか悪影響を取り除こうと努力するだろうが、幸いなことに私は英語教師でも英語学者でもない。誰かを指導する義務はないし、ましてや、世の中に粗製濫造されている英語関連の本に目を光らせて、いちいち出版社にクレームをつけようなどとは思わない。騙される消費者が悪いのである。

初めに『ベーシック・イングリッシュ再考』から引用した文の後半にある、「ほとんど知らない人々によって広がっていってしまった」という、I.A. Rechards の嘆きは、たぶん終わらない。だが、気にすることはないし、気にするだけ無駄である。

2004.08.27

ひまわり その10

以前「その9」に書いたように、たくさん植えた中でひとつだけ、花芽が茎のてっぺんだけでなくあちこちにできているものがあった。本来の花である一番上のものが咲いている間は、特に目立った動きもなく、小さなでっぱりが葉の付け根にあるというだけであったが、一番上の花を切ってからは、それらが成長し始め、今日になって3つほど開花した。つぼみはまだ4つくらいある。茎の横に丸くついているつぼみは、何となく芽キャベツのようである。(さすがに、芽キャベツほどたくさんはついているないが)

花が小さくなっても、外周にある花びらの大きさはあまり変わっていないので、ややヒマワリらしくない形になっている。花はますます小さくなった数は多いので、週末から来週にかけてかなり賑やかになりそうだ。これもまた楽しい。しじみのような形の小さな蝶が、蜜を吸いに頻繁にやってくる。

もともとわき芽のつぼみなどなかった株でも、てっぺんの花を切ると葉の付け根に花芽ができ、まるいつぼみに育っている。再来週には、これらも花を咲かせることになるだろう。

2004.08.26

Phrasal verb (句動詞)

一昨日、擬音語に関する話の中で、『日本語では動詞に擬音語を追加するが、英語の場合は、chuckle とか giggle のように独立したひとつの動詞になっている』と書いた。

しかし、もちろん英語にも、2語以上の単語の組み合わせによってある動作を意味するような例は無数に存在し、その中でも、動詞+前置詞/副詞の組み合わせからなる特定の決まった言い回しについては、そういう組み合わせの例が非常に多いので、特に、「句動詞」あるいは「動詞句」「熟語動詞」「二語動詞」などという呼び名をつけて、それ以外の熟語とは区別している。

句動詞だけを取り上げて整理した辞書も、英語学習者向けにあちこちの出版社から発売されている。初期に出版された辞書は、熟語動詞とか二語動詞という題名になっているようだ。句動詞という呼び名は、比較的最近になって定着した用語なのかも知れない。

句動詞の典型的なものとしては、give up(やめる、あきらめる)や put on(身につける) などがある。前者は熟語的なもので、give の意味と up の意味を単純に足し合わせても give up の意味は分からない。後者は、体の上(または表面)に置くということだと思えば、あたらずといえども遠からずである。服を着るという行為だけではなく、眼鏡をかけたり名札を身につけたりするのにも put on を使う。

熟語として特別な意味を持っている句動詞もあるが、かなりのものは、それを構成している単語それぞれの意味から、全体としての意味が推測できる。「動詞+位置や方向を示す副詞」というのが基本形であり、たいていは、動詞の意味を副詞によって補足しているに過ぎない。

句動詞は別としても、中学や高校で動詞と副詞を使った英文を書いたことのある人なら(みんな経験があるはずだ)、副詞は、動詞とは離して文末に置かれる場合があることを知っているはずだ。句動詞でも、put it on のように on は目的語 it の後ろに置かれることがある。ひとかたまりの put on が特別なときだけ分離するというより、もともと副詞の on は文末に置いて構わないのだ。だから put the black hat on のように途中の名詞が長くてもよい。

念押しだが、put on の on は前置詞ではなく副詞である。辞書で on を引けば、副詞としての説明も載っている。「on という単語はいつでも前置詞のはずだ」と思い込んでいると、わけが分からなくなる。(私は、on が形容詞や副詞として使われている文章を実際に何度も見ているにも関わらず、「on は前置詞だ」と長い間思い込んでいた。)

余談ながら、put on と wear は意味が違う。これは、TOEIC のパート1(写真を見ながら説明を聞いて、正しい説明のナレーションを選ぶ問題)で、引っ掛けとしてときどき利用され、かつて私も一杯食わされたことがある。すでに何かを着用済みの場合は、wear であって put on ではない。写真に写っている光景が、何かを「着用しようとしている途中」でないなら、"the man is putting on..." などのようなナレーションはほぼ確実に間違いであり、選んではいけない(さらに手の込んだ引っ掛けがあれば話は別であるが、TOEICは、そこまで変なことはしないと思う)。

コウビルド英英辞典は、put on の説明としてこう書いている:
When you PUT ON clothing or make-up, you place it on your body in order to wear it.
つまり、「wear するために、体の上(表面)に置く」ということである。そもそも put という動作は、あるものをどこかに置くという、「1回限り」の動作を意味する動詞である。何かをずっと置きっぱなしにすることを put とは言わない。したがって、put on という句動詞も、身につけていなかった何かを身につけるという1回の動作を意味し、身につけた後にその状態であり続けるということまでは意味に含まない。

一方、put on と似た形の have on という言い方もあって、こちらは「着ている(着た状態にある)」という意味になる。これは、have が「持っている」という状態を意味する動詞であることを考えれば当然かも知れない。そして、両社に共通している on は、どちらの句動詞でも「(体の)上に、表面上に」という意味のはずである。

ある句動詞の持つ意味は、しばしば、動詞の部分よりもむしろ前置詞や副詞の部分が支配的であるため、同じ前置詞や副詞を使っている句動詞は、同義語や類義語になることがある。このため、句動詞の辞典のなかには、動詞の部分ではなく副詞の部分に注目して索引をつけているものもある。例えば、『英語句動詞文例辞典―前置詞・副詞別分類』は、そういう本である。

2004.08.24

Onomatopoeia

日本語のマンガを英訳するときに問題になるもののひとつが、onomatopoeia すなわち擬音語と擬態語である。日曜に購入した NEGIMA では、巻末の編集者のコメントに、「全ての効果音に何らかの英訳を当てるという方針を取った」と書いてあり、確かにいろいろな工夫があった。主人公が呪文を唱えているところには、MMBL と書いてあったが、これはおそらく mumble(ぶつぶつ言う)の変形だろうと思う。英語は日本語ほど擬音語は多くないといわれているが、この mumble も、似たような意味の動詞 mutter や murmur も、擬音語である。

日本語では動詞に擬音語を追加して「くっくっと笑う」とか「くすくす笑う」というところだが、英語の場合には、chuckle とか giggle のように独立した動詞になっている。このふたつも擬音語である。「くっ」「ぐっ」という音に、反復動作を示す記号として -le が付いている。日本語では、動詞を補足するものとして「くすくすと、笑う」などのように書き加えているのに対し、英語ではいわば「くすくす、する」のように、動詞そのものになっているわけである。

(日本語の場合も、ひとかたまりの動詞になっている例があり、日本語の「(馬が)いななく」の「い」は、あの「ひひーん」という馬の鳴き声の擬音である。)

英語に擬音語が少ないと言われている理由の一つに、例えば laugh(笑う)のように、もともとは擬音語だが、長い年月の末に綴りと発音が変わってしまったせいで今ではそうは見えない、というのがある。大昔の laugh は、例えば hliehhan などのように書いていて、発音はつづりの通りだったという話だ。これが「はははっ」と笑っていることは、字を見ただけで想像できる。それがいつの間にか変わってしまった。確かに、日本語に比べれば英語の擬音語や擬態語は少ないようだが、語源不詳とされている動詞のいくつかは、擬音語や擬態語だと思う。

数の多い少ないもさることながら、日本語の場合は、過去に作られた擬音語を使うだけではなく、今、文章を作っているその場で擬音語を適当に作って使うということが珍しくない。日本語には比喩を意味する「・・・と」という便利な助詞があるので、何でも適当に作って「・・・と、笑う」と言えば何となく意味は通じる。このため、日本語は各人が勝手にその場限りの擬音語を作ることについて寛容であり、マンガの背景として手書きの文字で書き込まれる(しばしば即席の)擬音語や擬態語も、日本語の創作活動として自然なものである。

英語の場合には、どこまで許されるのだろうか? あるいは、日本のマンガが英語圏に輸出された結果として、英語における擬音語や擬態語の範囲が変わることがあるのだろうか? ちょっと興味深い話だと思う。

2004.08.22

Manga(マンガ)

昨日書いたように TOEIC テストの成績が大きく落ちてしまったので、今日は、その問題集を買うつもりで紀伊国屋書店まで出かけた。アマゾンの通販で買ってもよかったのだが、ここ最近あまり外出していなかったので気晴らしも兼ねてのことだ。

さて、さすがは紀伊国屋。英語以外にも語学のテキストがたくさんあったし、もちろん英語については和書も洋書も本当にたくさん置いてある。問題集は適当に一冊選び、それから売り場をあちこち見ていると、日本のマンガの英訳を陳列している棚が目に入った。

手塚治虫のメトロポリスやロストワールドの英訳があるのは、不思議ではない。鉄腕アトムもあった。日本の有名なアニメを元にしたマンガの英訳があるのもわかる。もはや、現代日本文化として政府機関も価値を認めているたぐいのものだ。また、英語を勉強している日本人向けに日本語と英語の両方を載せているマンガもあった。これも、店頭にあって不思議はない。英語教材としてのマンガは、最近では小さな書店にさえ置いてある。

それとは別のものとして、日本で現在進行形で出版されているマンガを、アメリカでアメリカ人読者のために出版している、というのも結構あった。

印刷物としての品質はまちまちで、酷いものだと、解像度の低いイメージスキャナでスキャンした結果、スクリーントーンの部分がモアレだらけになっている。さらに、ふきだしの中の日本語のセリフを消し忘れたまま、上から英訳のセリフが貼ってあったり、逆に、日本語は消したものの英訳も貼り忘れて吹き出しが空白だったりするものもあるようだ(店頭に、これはそういう商品だ。という警告の掲示があった)。

そうかと思うと、「編集方針として、背景の絵と一体になった手書き文字の効果音には手を加えない」というような宣言をした上で、巻末におびただしい注がついているようなものもあった。注のほうに "Mew" と書いてあったので、マンガの元の表現ではどうなっていたのかと思ったら、ひらがなで「にょ」と書いてあった。なるほど。これは翻訳が難しい。『目からビーム』などは、その通りに訳せばいいのだが・・・ いや、beam には別の意味があるので、『目からビーム』を日本語から直訳すると駄洒落か何かだと誤解を受けるかも知れない。もっとも、本筋とは関係ないことだが。

少し前にニューズウイーク(日本版)で、「日本で出版されている『マンガの描き方』のマニュアル本が英訳されアメリカで出版されている」という記事を見た。そのとき、アマゾンで試しに "How to draw manga" というフレーズで検索してみたら、何十冊も見つかってしまい、すごい時代になったものだと思ったものである。この手のマニュアル本は、絵柄と傾向がかなり偏っているような気もするが、野暮は言うまい。「これとこれは必ず買うべきだ」と、推奨する本のリストを作っているアマゾンのユーザーもいた。

今日は、紀伊国屋でたまたま見つけたのも何かの縁だと思って、試しに一冊、NEGIMA という本を買ってみた。定価11ドル。紀伊国屋では1400円。本の表紙に "For mature audiences age 16+" というシールが貼ってあり、中学生お断りらしい。日本では、確か少年誌に掲載されていたと思う。

NEGIMA の初めのほうのページには、一般的な説明として、日本では人を呼ぶときにいろいろな敬称のつけると紹介があり、登場人物のせりふでも「・・・さん」は "-san" というように残してあった。また、裏表紙をめくると、大きな活字で "Stop! You're going the wrong way!" と、ページがアメリカの普通の本とは逆順になっていることを読者に知らせる表示がある。かつてマンガの英訳でやっていたような、横書きの読み順にするため絵を左右裏返しに印刷するというようなことは、今はやらないらしい。もはやそんなことをしなくても、読者はちゃんとついてくるというわけだろう。店にあった別の本には、「裏焼きにして作品を変えてしまうわけにはいかない。登場人物が着ているシャツに MAY という文字がプリントしてあったとしたら、裏焼きで YAM になってしまうじゃないか。」と、宣言を載せた上で、「こういう順序で読む」と説明しているものもあった。

それにしても、NEGIMA については、アマゾンの書評欄で読者同士がケンカしているように見えるのだが、いいのだろうか? また、短く否定的なコメントをしている人(コメントの内容:「必然性なく女の子が肌をさらしている」は、確かにそうかも知れない)が、「これ、日本では約4ドル(390円)だぞ」と日本円の価格を書いていたりする点が、興味深い。

さて、NEGIMA は、ストーリーのある作品だから翻訳可能だとして、登場人物の雰囲気で読ませる4コママンガは翻訳可能なのだろうか? 紀伊国屋には、Azumanga Daioh があった。アマゾン・ドット・コムの書評を見ると、この本にも熱心なファンがアメリカにもいるらしい。なにしろ、「『ちんすこう』と『ウコン茶』がなぜギャグのネタになるのかという点について、翻訳上の説明がないのが惜しい。実は・・・」というコメントが、オレゴン州ポートランドの人からあったりするのだから。

ここ最近、日本では4コママンガ雑誌の創刊が相次いでいる。日本での流行が数年遅れでアメリカに届くのだとすると、いずれアメリカでも4コマ雑誌の翻訳ラッシュが起こるかも知れない。

2004.08.21

先月の TOEIC は散々な結果だった

近所のファミレスで友人と一緒に昼食を取り家に戻ってみると、先月受けた TOEIC の結果が郵便受けに入っていた。過去1年間に数回受けた中で最低の点数だった。

確かに、この1年間ちゃんとした勉強らしい勉強をしなくなり、今や『趣味と雑学としての英語』を楽しむだけになっているから、点が伸びないのは当然だと思う。しかし、現状維持さえできず衰えていくというのは、いくらなんでも問題がある。まさか60点も落ちるとは思わなかった。何とかしよう。

2004.08.20

基本動詞と動作名詞の組み合わせ

どこの国の言葉でもそうだが、会話や文章の中にでてくるある単語と別の単語の組み合わせについて注目してみると、使用頻度の高い特定のパターンがあることがわかる。例えば、日本語なら「食事する」か「食事をとる」という組み合わせは非常に一般的であるのに対し、文法的には正しくても「食事をえる」とか「食事をもつ」とは、普通は言わない。言うとすれば、何か特別な場面だろう。

一方、英語では "have a lunch" が普通で、日本語からの直訳で "take a lunch" というと、少し変である。数ヶ月前にデイリーヨミウリで読んだ日本語と英語に関する解説のコラムに、「生徒がそう言ってもいちいち訂正はしないけど、お弁当をどこかに持って行くみたいな感じがする」と、ネイティブの英語教師が書いていた。日本語の「とる」と「もつ」が担当する意味の範囲と、英語の take と have の範囲はかなり違っているらしい。「とる」という意味で have が使われる例は珍しくない。

日本語には「する」という万能の動詞がある。たいていの名詞の後に「する」をつけることができ、全体として「その名詞に関連する動作をする」という意味になる。英語の do は「する」ほど万能ではないが、同様な機能を持っていて、例えば do the dishes は「皿を洗う」という意味になる。(残念なことに、「dish には料理という意味もあるから、do the dishes は食事するという意味だろうか」と推理しても、それは違う。この種の組み合わせには熟語的なものもあるので、やっぱり辞書を引かなければならない。)

英語の do は日本語の「する」ほど万能ではないが、そのかわりなのか、have や give は、日本語の「もつ」や「やる」よりも適用範囲がかなり広い。例えば、have は「所有する」という意味よりももっと広く、「とる」という意味にも、何かを経験している場合やある状態にいる場合にも使われる。また give は、たとえ受け取る相手がいなくても自分から何かを出すときに使われる。自分ひとりしかいなくて悲鳴を聞きとる人がいなくても、give a cry と言う。

このように、似たような意味ではあっても、日本語と英語の動詞が受け持つ意味の範囲は完全には一致していないが、いずれにせよ、「動詞+名詞」という定型の組み合わせでひとつの動作を示すという点においては、日本語も英語も同じである。

そして、日本語の「とる」「やる」「する」「もつ」や、英語の take, give, do, have などは、いずれも具体的にどういう行動をとるかという点については「意味が薄い」動詞である。「食べる」や eat なら目的語なしでもやることは明らかだが、「とる」の場合、目的語が「食事を」か「休息を」かでは、実際にやることが全く違う。同じことは "have" a lunch と "have" a rest でも言える。動詞であるにもかかわらず、ひとこと「とる」とか "have" とだけ言ったのでは、どんな行動をとるのかわからない。実際の行動内容は、「食事」とか "rest" という名詞が受け持っている。

基本動詞という呼び名に厳密な定義はなさそうだが、「いろいろな場面で広く使われる、単純で一般的な動作を意味する動詞」だと考えてよいと思う。広い用途で使われきたせいで、動詞としての意味が薄まっているのか、それとも逆に、意味が薄まったから幅広く使われているのかは分からないが、とにかく、「基本動詞」と呼ばれるものは、しばしば、名詞を動詞として使うための文法的な記号の役割をはたしている。

『日本人の英語』か、それとも『続・日本人の英語』のどちらだったかは忘れたが、マークピーターセンは、動詞として get だけを使って組み立てた英文の例を挙げていた。同様に日本語でも、動詞には「する」だけを使うように限定し、「名詞+する」という表現のみの文章を組み立てることは可能だし、多くの場合そんなに不自然でもない。

書店に行って英語の入門書のコーナーをみると、「わずか数語の基本動詞でこんなにたくさん表現できる」というような呼び込みをしている本がいくつも見つかる。確かにその宣伝はウソではない。基本動詞は、動詞としての具体的な意味をかなり失っていて、その後に続く名詞のほうが実際の行動を示している。したがって、名詞の数さえ増やせば、動詞の部分は have や give だけしか使っていなくてもたいていのことが言えるというわけである。

そして、この種の本には、名詞の数だけおびただしい例文がつき、読者はアマゾンの書評欄あたりに、「たくさん表現できるけど、たくさん丸暗記しなければならないじゃないか!」と、ため息を書き込むことになる。

いくら動詞の種類が少なくても、名詞のほうは必要な数だけ覚えなければならないのだから、「わずか数語の基本動詞で」という宣伝は、本当は「わずか数語の基本動詞と、たくさんの名詞を覚えれば」ということであり、ちょっと誇大広告である。世の中そんなに甘くないのだ。しかし、『基本動詞+名詞』という組み合わせは、英語の表現の基礎となるものなので、知っておいて損はない。

最近の学習用英和辞典や学習用英英辞典は、この種の基本動詞の使用方法を丁寧に説明している。例えば、have の意味のひとつとして、『「主語 + have + 目的語」の形で目的語の部分に「a + 動詞から派生した名詞」を置き、have そのものは時制・人称・数といった文法的意味をになうだけで、実質的意味は目的語にある』というような説明がジーニアス英和大辞典には載っていた。また、コウビルド英英辞典では、わざわざこのために、have の他の意味とは独立した見出し語として have (USED WITH NOUNS DESCRIBING ACTINS) という項を用意しているほどである。

私自身も含め、たいていの人は「中学や高校の時に、have や get なんて習ってしまった」と、思っているので、社会に出て英語を勉強しなおす必要を感じたときでさえも、今さらこの種の基本動詞について辞書を調べてみようなどとはしないだろうと思う。そして、「have や get がからんだ熟語はたくさんあるなぁ 覚えるのが大変だ」と考えてしまう。なるほど確かに熟語的な部分もある。しかし、熟語として丸暗記しなければならない特殊な組み合わせというよりは、一般的な英語のパターンのひとつとして『基本動詞+動作を示す名詞』という形があるのだと考えたほうがよさそうだ。

辞書も進歩している。最近の辞書は、単に単語の意味を載せているだけではなく、その単語を使っている文章がどういう構造をしていて、文中の他の単語とどういう関係にあるのかについても、ある程度説明している。コロケーション辞典と呼ばれている、単語と単語のよくある組み合わせについてまとめた辞書もある。昔習った、とっくに知っているはずの易しい単語についても、油断せず、使い方を一度調べなおしてみるといい。

2004.08.19

努力家を天才と呼ぶのは侮辱である

数年前のことだが、ある若いイラストレーターが、自分のホームページで嘆いていた。「自分が苦労して描いた絵を、専門学校の同級生が評して、『天才』と言った。さんざん練習を積み重ね、やっとここまで到達できたものを、『天才』という一言で切り捨てられた。もう、死にたい。自分は、この程度の絵ではだめだ、もっと勉強しなくてはすぐにプロの世界から脱落すると必死なのに、こいつは何を考えて学校に来ているんだろう。」と。

さもありなん。その同級生は、練習や勉強の重要性をまるで感じていないというわけだ。だから、他人が努力して現在の技量を身につけたとは思わず、ひとこと「才能があっていいね」で済ませてしまうわけである。

私は、たまたま、このイラストレーターが全くの素人であった時代に彼のホームページを見つけ、ときどき見ていた。最初はどこにでもある素人の落書きだった。私は絵描きでも何でもないただの見物人だが、数年間見ているので、彼が少しずつ段階を技能を身につけていった進歩の過程を知っている。だから、彼の悔しさは理解できるつもりだ。彼は、ひとつずつ技法を身につけやっとここまでたどりついたという努力の積み重ねに一切注目されることなく、まるで成金の息子が親からの遺産で金持ちになったかのように言われてしまったのである。しかも、本人は、「まだ努力が足りない。もっと勉強しなくては」と思っていたのだから、悔しさはひとしおだったろう。

同様な嘆き声は別の絵描きさんからも聞いたことがあるし、語学や科学など別の分野でも聞いたことがある。

率直な話、これは、ある程度はどうしようもないことである。自分が力を注いでいることがらについて、他人が興味を持っているとは限らない。興味のない人は、目の前にある結果だけを見て適当にほめ言葉を投げかけるだけであり、当人の苦労など知ったことではない。「よくわからんが、とりあえず天才呼ばわりしておけばよかろう」という程度にしか考えない。苦労を知って欲しいと本人が思っていても、他人には伝わらない。苦労を分かち合えるのは、同じ苦労をしてきた同業者とだけである。(冒頭の話については、相手が、苦労がわからないはずのない、同じくプロを目指すはずの者だったがゆえに、当人はなおさら大きなショックを受けている。もっとも、専門学校は温度差の非常に激しいところでもあるのだが。)

人をほめるというのはかなり難しい行為である。ある人物が作った「もの」をほめるのと、その人物のプロとしての才能をほめるのとでは、話が全く違う。ものをほめることについては、社交辞令で適当なことを言っても比較的安全だが、人間をほめるというのは大げさに言えば相手の人格や人生に関わることだから、いい加減なほめ言葉は結果として相手を侮辱することになりかねない。本人が天才呼ばわりされることを望んでいると事前に確認できていないかぎり、天才呼ばわりは避けたほうがよい。もちろん、本人が望んでいる場合なら、おおいに天才呼ばわりして満足させてやればよい。しかし、努力家にとってそれは拷問である。

2004.08.18

Basic English で使用する派生語

前回は、Basic English で使用する合成語についてちょっと触れた。今回は派生語について述べようと思う。

Basic English は、単語の頭に un- をつけて元の意味を否定する単語を作ることを許している。また、名詞や形容詞として挙げられている多くの単語に、-ed、-er、-ing、-ly をつけて派生語を作ることもできる。例えば、Basic English には doubt (疑い)という名詞があるので、これから派生させた undoubtedly(疑いもなく、間違いなく)という副詞を Basic English の一部として使うことには何も問題ない。そして、doubt という単語の意味を知っている人なら、undoubtedly の意味は間違いなく推測できると思う。

一方、ちょっと分かりにくいものもある。例えば、pencil(鉛筆)に -ed をつけて、形容詞 penciled(鉛筆で書かれた)を作ることができる。これは、別におかしなものではなく、少し前に読んだアイザック・アシモフの短編集 I, Robot には、次のような文章があった。"There are the penciled dots that mark Speedy's position." これは、登場人物の一人が、仕事から帰ってこないロボット Speedy の足取りを地図に鉛筆でつけ、同僚にそれを見せたときのセリフである。

余談ながら、アシモフのファンなら、これが何の話か即座に分かるだろう。I, Robot という映画が最近発表されたが、題名と登場人物の名前だけを使った完全に別の作品らしい。が、映画化されたせいで、原作に対する注目度があがったらしく、オリジナルの小説の朗読CDが発売されたので、映画化してくれた人にはちょっと感謝している。

CDは7枚組で全部で8時間20分ある。パッケージには映画の登場人物がでかでかと印刷されているが、中味は映画とは関係ない原作の朗読である。アマゾンで注文するときにパッケージの写真を見たので、正直な話、「もし、原作ではなく映画のノベライズか何かだったらどうしよう」と、実物の音声を聞くまで内心冷や冷やしていた。逆に、映画の内容を期待して買った人がいたとしたら、お気の毒としか言いようがない。

さて、I, Robot のことはともかく、本題に戻ろう。何らかの行為を意味する単語、例えば attack とか paint などに -er や -ing などをつけた場合なら、そうしてできた派生語の意味は類推しやすいが、pencil から penciled(鉛筆で書いた)という形容詞を作ることができるというのは、日本語の感覚からはちょっとかけ離れている。といっても、英語とはそういうものなのだから、文句を言っても仕方ないのだが。

英和辞典を引けば、日本語からの連想のせいで名詞の意味しかないと思っていた単語が、実は動詞としても使え、したがって、Basic English においては -ed や -ing を追加して形容詞に変えることできる。と、確認できるはずである。辞書にはちゃんと載っている。

最初にあげた penciled にしても、もともと pencil には、「鉛筆で書く」という動詞の意味がある。手元の辞書には Mark penciled a note to his wife という例文があった。同様に sponge(スポンジ)は、「スポンジ」という物体を意味する名詞であると同時に、「スポンジでふく」という動詞でもある。

調べてみると分かるが、英語は何でも動詞として使ってしまう言語で、「執筆する、筆をとる」というちょっと格好をつけた表現として、pen を動詞として使うこともできる。梅や桃のような大きな核(種)のことを stone というので、そういう果物から「種を取る」という動詞として stone が使えたりする。別の文脈では、「石を投げる」という意味にもなる。動詞としての stone は、石(のようなもの)に関する動作を何かやるというだけで、実際にどういう行動を取るかは文脈によって変わってしまうのだ。肉や魚から「骨を抜く」という意味で bone を使うこともできる。厄介なことに seed は、畑に「種をまく」という意味も、果物から「種をとる」という意味もあって、文脈から常識で判断する必要がある。まあ、「畑に種をまく」ことはあっても、「果物に種をまく」ことは普通ないので、間違えることはまずないだろうが。

C.K. Ogden が Basic English の中で動詞として使ってよい単語を大幅に制限し have や get などの基本動詞(そして、その合成語)だけにしたのは、このような『何でも動詞として使える。意味は、個々の状況における常識によって変わる』という英語の特性は、ノン・ネイティブにとって混乱の元だと考えたからかも知れない。そうやって制限しておきながら、形容詞化すれば使うことができると逃げ道を用意するあたりに、微妙なバランス感覚を感じる。とはいうものの、これは濫用すると元の木阿弥という気もするので、この種の表現は無理に使うことはないと思う。

Basic by Examples という本は、Basic English の通常の単語850語に加え、-ed、-er、-ing、-ly によって作られた派生語についても使用例を載せている冊子で、stoned のような例も載っている。Basic English に興味を持った人は、入手して例文に一通り目を通してみると思いがけない発見があるかも知れない。幸い、日本国内でまだ入手可能である。

2004.08.16

Basic English で使用する合成語

『Basic English は、わずか850語の単語の組み合わせによって、実用に耐える英文を組み立てることができる』ということになっている。実際、Basic English の入門書には必ずこの850語の表が載っており、「これだけあれば大丈夫です。なぜならば、これらの語は・・・」と、読者に説明している。しかし、本当のところ、この850という数字にはウソがある。なおかつ、許されるべきウソであると思う。

Basic English は、ある一定の制限の範囲内であれば、合成語や派生語を作ることを認めている。Basic English の単語表には、「結果」という意味の result は存在しないが、out と come をつないで作った outcome(結果、成果)という名詞を使うことを許している。単語表に outcome は存在しないが、out と come の意味を知っているなら、「出てくるもの、すなわち結果」という意味を類推できるはずだというのがその理由である。

この outcome という単語は result ほど使用頻度は高くないが、学習用の英和辞典に必ず載っている一般的な単語なので、result の代わりに outcome を使って英文を書いても間違いではない。実際、少し前に読んだデイリーヨミウリの新聞記事にも使われていた。(ただし、result は、名詞としてだけではなく、「~という結果になる」という意味の動詞としても使うことができるが、outcome は名詞だけである。)

また、日本語でも外来語として定着している「アウトプット」 output は、「生産物、生産高」という意味であり、これも文脈次第では result の代わりに使うことができるだろう。

同様に、on と look そして「動作をする人」という意味の -er をつないで作った、onlooker(見物人)という名詞を使うことも全く問題ない。あるいは、unlooked-for(思いがけない、予期しない)という形容詞を使うことも可能である。どちらも、普通の英和辞典に載っている正しい単語である。

なお、「字面を見て意味が類推できること」という縛りがあるので、for と get をつないで forget を作るようなことは許されていない。(実は、ここにも若干の問題がありそうな気がするが、今回は触れない。)

さて、こうやって単語の数を増やしていくことを許容するのであれば、「わずか850語で」という宣伝文句には、ごまかしがあるということになる。いくら見た目から意味を推測できるとはいえ、Basic English の基本語彙しか知らない人が、独力で outcome という単語を編み出して、しかも、それを通常の英語で使われているのと同じ形で正しく使うことができるとは、ちょっと思えない。読む側については Basic しか知らなくても大丈夫だとしても、書く側は、通常の英語の知識として outcome という単語がこの世に存在するのだと知っていなければならない。

C.K. Ogden は、そのへんもちゃんと考えていて、基本の850語とともに使い道のありそうな合成語をまとめた The Basic Words という本を出版していた。数年前まで日本でも出版されていたらしい。残念なことに、今は絶版である(2004年8月現在)。この本の最初と最後のページを紹介しているサイトがあるので、参考までにリンクしておく。
http://ogden.basic-english.org/isl322.html

すっきりした文章を書くためにはこのような合成語を使いこなせることが望ましく、Basic English で作文するとき、実際に使う語彙数は850よりずっと多くなる。これは、Basic English に対する攻撃材料の一つ(850語で済むなんて、うそだ!)であり、かつ、ある程度的を射ているようにも思う。

とはいうものの、ものは考えようである。見たこともないスペルの新しい単語を覚えなくても、すでに意味を理解している単語をつなぎ合わたものとして、自分の持ち駒として使える単語の数をかなり増やすことができるのである。新しい単語をむやみに丸暗記するのではなく、すでに覚えているものを最大限利用するというのは、優れた戦略であると思う。ありふれた単語の組み合わせで、表現の幅を広げることができるというのが、Basic English というアイデアの面白さである。

Basic English の範囲にこだわらなくてもよいので、暇なときにでも辞書をながめて、in, on, out, over, up などの基本的な単語から始まる合成語を確認してみることをお勧めしたい。普段自分が使っている言葉よりも、もっと簡単な言い回しがあることに気がつくかも知れない。

2004.08.14

ミリオンゴールド(メランポディウム)

以前、カランコエを二つ買ったときに、店の人がメランポディウム(Melampodium、商品名はミリオンゴールド)をひとつオマケしてくれた。これは背の低い菊科の一年草で、一円玉くらいの小さな花をたくさん付ける。もらったときには、手のひらに載る大きさだったが、いまやバレーボールくらいの大きさになって、こんもりと丸く茂っている。かなり丈夫で育てやすい。特に刈り込んだりしなくても、自然に丸くなり、小さな花で覆われたボールになる。

このミリオンゴールドと、同時に買った二つのカランコエは、小さめのプランターにまとめて植えていた。乾燥に強く多湿を避けるべきカランコエと、多湿には強く乾燥に弱いので水遣りを欠かさないほうがいいミリオンゴールドを同じプランターに植えるという点には、いささか問題があるが、どちらも日光を好むのでどちらも元気よく咲いている。プランターの中央にミリオンゴールド、その両脇にカランコエ。黄色と赤紫を並べるのは見栄えがいいだろうと思っていたし、実際、きれいである。

しかし、ミリオンゴールドがこんなに大きくなると知っていれば、もっと植え方を考えるなり、別の鉢に分けるなりしたところであった。プランターの正面からみると、今や、カランコエはすっかり隠れてしまっていて、ほとんど見えない。花が咲いている最中のものには手をあまり加えたくないのだが、明日あたりに、別の鉢に植え替えようと思っている。

2004.08.13

ひまわり その9

ふたつめの植木鉢のひまわりも、一斉に花を開き始めた。小さいながらもなかなか壮観である。一方、先に花を咲かせたほうはそろそろ散り始めていて、花の中で種が膨らみ始めている。

園芸用に売られているひまわりの中には、普通に育てていても(特に摘心などをしなくても)自然にわき芽を伸ばして枝分かれし、一株でいくつも花を咲かせるものがあるが、今植えている品種は飼料用のロシアヒマワリ、つまり最もありふれたヒマワリなので、何もしないで普通に育てているなら、真っ直ぐに伸び先端にひとつ大きな花をつけるだけである。苗のときに摘心、つまり茎の先端を切ってそれ以上伸びないようにすれば、普通のひまわりでも枝分かれして複数の花をつける。露地植えにするとき、背を低くして一株にたくさん花を咲かせたいなら、本葉8枚程度のときに摘心するといい。

さて、たくさん植えたひまわりのうち、一つだけ、茎の先端以外にも、あちこちに花芽をつけているものがある。頂点に花芽ができ始めたとき、あちこちの葉の付け根にもわき芽のようなものが膨らみ始めていたので、「おや? こいつは勝手に枝分かれする性質が強いタイプなのかな」と思っていたが、花芽であった。生育は他の株よりよく、頂点の花は早めに開花し、すでに散り始めている。種を作らせると株が体力を使ってしまうので、名残惜しかったが思い切って頂点の花を今日切ってしまった。すでに種ができかけていて、白い表面にロシアヒマワリ特有の縞模様がうっすらできていた。

花を切り落としたあとで、「ああしまった。種を作らせておけば、『放っておいても花をたくさんつけるヒマワリ』が手に入ったかも知れない!」と、思ったが、後の祭りである。でもまあ、この株の残りの花が咲いてくれれば、種は取れるだろう。ちょっと楽しみである。

2004.08.12

制約条件が最適解をもたらす

数学的に言えば、『最適解』とは、ある与えられた制約条件のもとで、ある目的関数を最大化(または最小化)するような解のことをいう。似たような問題であっても、制約がある場合とない場合とでは、問題の性質が大きく異なる。線形計画法のように、制約条件なしでは解が存在しないということもある。

数学的な問題を解く場合はともかく、会社での仕事の進め方や作るべき製品の内容、プロジェクトの管理、仕事に関わる人間関係の調整などのように、数式では表現できない上に非常に多くの要因が絡んでいることがらを「最適化」するのは絶望的に難しいことであるが、理想的な立場から最も適している解を定めるのではなく、現実の世界において実現可能な範囲で最もマシな解を選ぶというのであれば、解くべき問題が簡単になる場合が多い。

例えば、「今、会社が直面している問題を解決するためには、どういう特徴を持った人材が必要であるか? 最も適した人材像は何か?」という問題を立てその最適解を考えるのは、かなりの難問である。しかも、問題を詳細に分析した末に望ましい理想像を決定し、そういう人物を得るべく求人をかけたとしても、望みの人材が入ってくるとは限らない。

一方、「候補者が数名いる。それ以外には存在しない」という強い制約条件があらかじめ与えられている場合、その数人の中から誰かを選ぶというのは、比較的簡単な問題である。少なくとも、抽象的な理想像を決めた上で、それに近い人物を世の中から探し出すよりは楽である。

これは人材募集に限った話ではなく、卑近な例としては、「数人で社員旅行に行くとき、どこのホテルに泊まるか?」というようなレベルの問題を解くときでも同様である。最適な立地条件や交通条件をまず決めてからホテルを探すより、空き部屋のありそうなホテルをいくつかリストアップして、その中から「いちばんマシ」なものを選べばよい。

もしかしたら、一番マシなホテルは、決して満足できるものではないかも知れない。望みうる最高のホテルとは言いがたいかも知れない。しかし、一泊20万円の部屋に泊まるわけにもいかない。予算や空室の状況という制約条件の下で、実行可能解を求めるしかない。低予算で立地条件もいいホテルは、とっくに予約でふさがっている。

制約条件は、最適解の満足度を引き下げるものであるから、誰しも「制約がなければいいな」と思うのが普通である。しかし、最初に制約条件が与えられていれば、選択の余地が狭まるがゆえに最適解を求めるという作業は簡単になる。新製品の開発をするときには、有限の人手と金と納期で何をどう作るか、考える必要がある。そのとき、「ああ、予算がもっと多かったら」とか「もっと有能な開発者がいれば」とないものねだりをしてもしかたない。そのとき、「しかたない」とあきらめるのではなく、「この条件なら、そもそも実現可能な案はこれとこれしかない」と、制約条件を土台にして実行可能解をリストアップしてみるとよい。そして、その中から「いちばんマシ」なものを選ぶのである。

仕事に課せられた制約条件を、「自分の仕事を邪魔する嫌なもの」だと考えて、忌み嫌ってもしかたない。そうではなく、「自分の決断を迅速化してくれる道具だ」と思うようにしてみてはどうだろう? その道具は、きっと役に立つ。

2004.08.11

リンゴをかじると、中の種は発芽していた

低温貯蔵技術の進歩によって、去年の秋に収穫されたリンゴが今の季節になってもみずみずしい状態で売られている。たいしたものである。リンゴは好物なので時々買って食べている。今、我が家の冷蔵庫にあるのは、少し前に買った袋詰めで6個500円の小ぶりなもので、品種は「ふじ」だったと思う。

さて、今日かじったリンゴは、中の種が3つほど発芽しかけていた。種から根が数ミリ伸びている。何ヶ月も貯蔵されていて、ついに待ちきれなかったのかも知れない。マンゴーなどでは、実の中で根を伸ばし始めているものを何度か見たことがあるが、リンゴでは初めてである。もっとも、リンゴの種は小さいので、今までは気が付かずに芯ごと食べてしまっていたのかも知れないが。

せっかくだから植えてみようかとも思うのだが、今までずっと低温貯蔵にあったものを、いきなり真夏の植木鉢に移して大丈夫か、ちょっと気になるところである。

2004.08.10

無関心が組織を腐敗させる

日本学会事務センターが破産することになったそうだ。日本学会事務センターとは、学会、すなわち日本にうじゃうじゃと乱立する学者のサロン(おっと、失礼!)における事務作業、例えば、会費徴収作業や学会誌の編集・制作・発送などを代行する団体である。

今年7月3日、この団体が、各学会からの預かり金約16億5000万円を不正流用していたこと、そしてその結果、6億円の債務超過に陥っていたことが露見した。赤字を解消するための再建計画が文部省に提出されたが、そもそも利潤を出すための団体ではないのだから、巨額の赤字を解消できるような収入源などあるはずがない。しかも、ここに業務を委託していた多数の学会が一斉に契約を打ち切ってしまっている。

そして、8月9日の新聞報道によれば、結局、民事再生手続き開始の申し立てが東京地裁に棄却され、財産処分を禁じる保全管理命令を受けたとのこと。すなわち、再建は不可能であり破産することになったということである。

私が所属していた学会のなかには、ここに業務を委託していたものはなかったので、私にとっては直接の問題はない(ひとつあったような気もするが、そこは退会している)。とはいうものの、どうしてこういう馬鹿げたことが起こるのやら・・・ 実に腹立たしい。

しかし、思い当たるフシがないでもない。学会に所属している人間は、誰も経理のことなど気にしていない。ほとんど無関心である。学者として生きていくためには、研究会や発表会でせっせと自己の業績をPRしなければならないので、学会に入らないわけにはいかない。そして、会費は、安いとは言わないものの、個人で払える程度には安い。自分の書いた論文が雑誌に掲載されるかどうかなら、生活と出世がかかっているから必死になるが、納めた会費がどのように管理され何に使われているかなんて、考えたこともない人のほうが多いはずだ。どうせ、払わないでは済ませられないものなのだし、あれこれいうのも面倒くさい。

日本学会事務センターの金銭の管理は、非常にずさんであった。学者たちから事務センターに振り込まれた金は、それぞれの学会に届けられるべき金であって、事務センターの収入ではない。事務センターの収入は、各学会から仕事の対価として支払われる手数料のほうである。しかし、事務センターは、この両者を区別せず、どんぶり勘定にしていた。そして、その大きなどんぶりの中から、事務所のビルの建設費などを支払っていた。関連会社では、経費の使い込みもあった。不正はまだまだ見つかるだろう。

ずさんな経理を指摘する人はゼロではなかったが、しかし、ほとんどの人は無関心だった。文部省も放置していた。これでは、腐敗しないほうが不思議である。最終的な責任は、金を預かり管理する立場の人間に帰せられるとしても、それを放置していたのは無関心な顧客たちである。

2004.08.09

ひまわり その8

ひまわりはたくさんの水を必要とするので、毎日の水遣りが欠かせない。我が家の場合、植木鉢は玄関先に置いてあり、ここは早朝から午前中にかけて最も強く日が当たる。夜のうちに水をやっておかないと、朝、日が高くなってから起床して玄関に出たときには、もう、ひまわりは水不足でしおれている。そして、午前中にも水遣りをしておかないと、夜、仕事から帰ってきたときにしおれている。小さな鉢に無理やり密植しているせいでもあるのだが。幸い、今のところ病虫害はほとんどなく、水さえやっておけばよい。

ひまわりのついでに、カランコエにも水をやっている。こちらは多肉植物なので乾燥には強い。毎日水をやらなくても平気だし、むしろ水のやりすぎは根腐れの原因だと言われているが、水はけのよい土に植えてあるなら、まめに水をやっているほうが、花の数も増えるし咲いた花の日持ちもよいように思う。ただし、花そのものに直接水をかけたり、葉に水たまりができるようなやり方をするのはよくない。また、鉢やプランターの中で大きく成長して根が詰まっている場合には、注意が必要である。花屋で買ってきたものは、早めにひとまわり大きな鉢に植え替えたほうがよいと思う。そういうことが面倒なら、単純に水遣りを控えめにすればいい。ほったらかしでも簡単には枯れない。

ところで、ひまわりの花は、咲いた後でも大きくなるということに気が付いた。花の大きさが、咲き始めたときの1.5倍くらいになっている。頭が重いので、ちょっとの風でも振り子のように長いことゆらゆらと揺れているのが、なにやら楽しげである。

もうひとつの鉢のひまわりも、つぼみの花びらが色づいてきた。今週中に咲くだろう。

2004.08.08

敬意を持てないなら、好奇心を持て

海外でのビジネスを成功させたいなら、現地に敬意を持てと、少し前に書いた。しかし、どうしてもそうできない場合もあるだろう。そういうとき、お勧めの策がある。

「彼らは尊敬に値する」と思うのが無理なら、「あいつらは馬鹿だが、面白い」と思うようにするとよい。理解できないものに敬意を持てと言われても難しいが、理解できないものを面白がるということは、それに比べれば簡単なことのはずだ。

これは海外とのやり取りに限った話ではなく、国内の日本語の通じる相手であっても、住んでいる世界が異なる場合には必要なことである。「言葉が通じる」にもかかわらず、異業種の人間とは「話が通じない」ことが少なくない。

「近頃の若いものは」と言うようになったら、人間オシマイである。そういう人はすでに事実を観察する能力を失っている。具体的な事実に即して、「先日見かけた人物は、こういうけしからんやつだった」と論じるのと、自分の頭の中に作り上げた「近頃の若いもの」というモデルについて論じるのとでは、天と地ほどの差がある。後者の議論においては、モデルは事実の裏づけから解放され、批判者自身に都合よくいくらでも歪曲されていく。

そして、これは、「近頃の若いもの」に限った話でない。「××国の人間」や「○○業界の連中」というくくりにも、同様な危険が忍び込む。相手国のスタッフをまともに見ることなく、あいつらはこうだと自分で勝手にモデルを作ってしまえば、あなたは遠からず厄介なトラブルを抱え込むことになるだろう。

好奇心は、こういう自らの偏見に対する特効薬になりうる。もちろん、相手に対して敬意を持って接することができればそれに越したことはないが、大事なのは敬意でも悪意でもなく、事実を観察するという姿勢である。「なんだこりゃ? ワケが分からん」と言いながら、面白がって相手の不可解な行動を観察すればよい。

他人の奇妙な行動を見てニヤリと笑うのは、道徳的ではない行為かも知れないが、小市民のささやかな楽しみとして許されるべきものである。腹を立てながら働くより、面白がっているほうが、心の平和も保てる。好奇心を持とう。

2004.08.07

前置詞と後置詞

前置詞 preposition とは、通常、名詞の前に置かれる特定の機能を持った単語であって、その名詞と一緒になって形容詞句や副詞句を作る。例えば、"a cat in the hat" の "in the hat" は、「帽子の中に」という意味の形容詞として直前の名詞 cat を修飾している。英語を勉強する日本人にとって、冠詞と前置詞は、日本語に存在しないものであるがゆえに的確に意味と使い方を理解するのが難しい。第二言語として英語を学ぶ人を対象にした前置詞の解説書、The Ins and Outs of Prepositionsには、前書きにこんなことが書いてあった。

Prepositions pose more problems for the non-native speaker or learner of English than other part of speech. Why? Prepositions are just little words that never change in form; they are pronounced softly, in unstressed syllables; they aren't even given capital letters in book titles; native speakers choose the correct ones without thinking. How can they be confusing?

The word "preposition" has a straightforward definition: a word placed before a noun or pronoun to define its relationship with another word in the sentence. For the learner of English, however, prepositions are anything but straightforward.

要するに、「前置詞は、ネイティブにとっては本能的に分かるちっぽけなもので軽く扱われているが、ノン・ネイティブにとっては厄介だ」というわけである。この前書きに続いて、英語の前置詞がノン・ネイティブにとっていかに厄介なものであるかという事例が2ページあった。例えば、スペイン語の前置詞 en を例に挙げている。これは英語の前置詞とは一対一に対応せず、英訳するときは文脈に依存して異なる前置詞 in, on, at, about, of に置き換えなければならないそうだ。

日本語から見れば、スペイン語と英語はかなり近い親戚である。少なくとも日本語と英語の間にある差異よりは、ずっと小さい。それでも、両者の前置詞は一致しないということらしい。まして日本語は・・・ いや、そもそも日本語には前置詞などない。存在しないものを英語に対応させることはできない。日本人としては、和文英訳や英文和訳のとき、英語の前置詞をどう処理すればよいのだろう?

ところで、言葉は、単に何かを他人に伝えるためだけに使われるわけではない。ひとりで思索活動にふけるときにも、人間は言葉を道具として、複雑な構造の論理を操っている。思考活動の複雑さは道具として使われる言語の複雑さに支えられているし、逆に、社会の平均的な思考水準が高くなると、その社会で使われる言語には複雑な機能や構造が追加されていく。

前置詞は、文章中に出てくる物と物、物と行動などの関係を決めるため機能語である。そういう機能なくしては、二つ以上の名詞が出てくる文章を組み立てることはできない。大昔の英語には関係代名詞も現在完了形もなかったが、前置詞は最初からあったらしい。日本語には英語のような前置詞はないが、しかし、同様な機能を持つ何かがあって、それが日本語の基本的な論理構造を支えているはずである。それは何か。結論から言えば、日本語では「助詞」がそれに相当する。

助詞は名詞のうしろに置かれる。したがって、これは「後置詞 postposition」である。私が、「前があるなら後もあるだろう」と、思いつきで後置詞という言葉を編み出したわけではない。ちゃんとした専門用語である。三省堂の大辞林で「後置詞」という言葉を引くと、こう書いてある。

 こうちし 【後置詞】
〔postposition〕名詞・代名詞の後ろにあって、文中の他の語との関係を示す語。日本語の助詞はこれに当たる。

ちなみに、「前置詞」の説明はこうである。

 ぜんちし 【前置詞】
〔preposition〕西欧語の文法における品詞の一。名詞・代名詞などの前にあって、文中の他の語との関係を示す語。英語の of, on, フランス語の , de, ドイツ語の auf, mit の類。

検索エンジンで、"後置詞 日本語" あるいは "japanese postposition" というキーワードを検索すると、興味深いページがいくつも見つかる。残念なことに、私は言語学については完全に素人なので、日本語で書いてあっても何のことやら全く理解できないページのほうが多いのだが。

さて、「英語の前置詞は日本語の助詞と似た役割を果たしているのだ」というのは、英語の初心者でも感覚的に理解しているように思う。日本語で「・・・から」と書いてあれば英訳には「from ...」を、あるいは、「・・・へ」なら「to ...」を、ほとんど自動的に割り当ててしまうほどである。「から」や「まで」が助詞であることは言うまでもない。

日本語の助詞もまた、英語の前置詞と同様、ノン・ネイティブな人たちにとっては使い分けを理解するのが難しいものであるらしい。そして、ネイティブが説明するのも難しい。

ちゃんと訓練を受けた日本語教師は別として、日本語の助詞の使い分けとして「酒を飲みたい」と「酒が飲みたい」の違いについて日本語学習者から質問されたときに、その差異を簡潔に説明できる日本人は少ないはずだ。また、「酒は飲みたい」と、単独では普通言わない。不自然である。しかし、「酒は飲みたいけど、また今度にしよう」などのように文が続くなら、「は」を使っても不自然ではない。なぜ? 不思議だが、平凡な日本語ネイティブとしては、頭をかいて「うーん、考えたこともないや。だって、自然に分かるし・・・」と困惑するしかない。

日本語と英語は全く異なる言語であるが、英語の前置詞と日本語の助詞は、わりと同じような仕事をしている。そして、文法上の機能のみならず、「比較的短い音節からなる単純な単語で、ネイティブには本能的に正しい使い方が分かり、ノン・ネイティブには分かりにくい」という、特徴までもが何やら似ているというのは、私には非常に面白いことである。何か、人間が物事を考えるという作業の根本的な部分にある何かが、言語を作り出すときに作用しているのではないかと思っている。

2004.08.06

CHKDSKコマンドが働かない

(2006年10月27日追記。このページは検索エンジンで飛んでくる人が多いので、別のページを用意しました。結論だけ知りたい人は、こちらをどうぞ。(再掲)CHKDSKコマンドが働かない

一昨日は、ほぼ半日かけてパソコンのハードディスクの修復をした。

特に重大な問題が起きていたわけではないが(いや、実は重大だったのかも知れない)、少し前から Windows の CHKDSKコマンドが実行できなくなっていた。理由は分からない。ディスクのチェックと修復を指定してパソコンを再起動させると『ダイレクトアクセスできない』というようなメッセージが表示され、ディスクのチェックが中断される。メッセージが日本語だったか英語だったかは覚えていない。英語で "Cannot Open Volume for Direct Access" と表示されていたような気もする。

修復オプションを指定せず検査だけをすると、「問題が起こっているので /Fオプションをつけて修復しろ」と、表示されるが、それができない。しかも、パソコンを起動すると毎回CHKDSKコマンドを実行するようになり、かつ、エラーメッセージだけを出して実際には何もやらないという状況になった。精神衛生上、非常によくない。

OSの再インストールやPCのBIOSの設定の変更などは、すべて無駄であった。

検索エンジンで関連しそうな情報を探してみても、めぼしい情報は見つからなかったが、以下と関係があるのかも知れない。1年前の情報のようだ。

スタートアップ時に Chkdsk を実行した場合のエラー メッセージ “ダイレクト アクセスのためにボリュームを開けません” http://support.microsoft.com/default.aspx?scid=kb;ja;823439

残念ながら、このページは「当社は問題の存在を認識している」と言っているだけで、問題解決についての情報ではない。検索エンジンで見つけたMS以外のサイトの相談ページでも、結局、上のページにリンクを示しているだけで、やはり解決策はわからない。

さらに情報を探していて、こういうページも見つけた。
SMS の Rchelp.sys ファイルが原因で Chkdsk.exe が実行できない http://support.microsoft.com/default.aspx?scid=kb;JA;308238

私が使っているのは WindowsXP Home Edition なので、この2番目の情報は、直接の関係はないような気もした。説明にある「SMS のリモートコントロール」というのも、何のことか分からないが、とにかく個人が家庭で使っているパソコンとは関係ないだろう。

しかし、この二つの情報から想像をしてみるに、「CHKDSKコマンドが実行されるより先に何かがハードディスクにアクセスしてしまうと、CHKDSKコマンドはディスクを独占的に使えないので、修復をあきらめて処理を中断する。(ディスクを修復するためには、ディスクを独占的・排他的に使えなければならないため)」というのは、一般的にもありそうな話である。

だとすると、余計な『何か』がCHKDSKコマンドより先にハードディスクにアクセスすることを防止すればいいのだが・・・ 残念ながら、何がそれなのか全く見当が付かなかったし、どうすればそれを止めることができるのかも分からない。

私が知っている、『トラブルを解決するため、起動時に余計なプログラムを実行させないようにしてパソコンを起動する方法』は、ただひとつしかない。セーフモードである。

長時間かけてあれこれ試行錯誤した末、パソコン起動時にF8キーを押してセーフモードで立ち上げ、『コンソール』を選ぶと、画面には全く何も表示されないまま、ハードディスクのアクセスランプが点灯しっぱなしになる。と、いう段階まで持っていくことができた。

「画面が完全に真っ黒になり左上隅にカーソルが点滅しているだけの状態で、ディスクのアクセスランプが点灯し続ける」というのは、見るからに暴走状態であるが、これはきっと、起動時のスケジュールに組み込まれた、あの(通常の起動時にはなぜか実行できなくなってしまった)CHKDSKコマンドを実行している最中であるに違いない。そう思いつつ1時間が経過するが、止まりそうにない。以前、セーフモードでCHKDSKコマンドを実行したときにも、普段より非常に時間がかかるという経験をしたので、そんなに不安ではなかったが、結局、緊張感に耐えられずリセットボタンを押してしまった。

通常の起動状態でディスクの中を見て、少なくとも中味が今まで以上には壊れていないことを確認する。そして、もう一度、コンソール画面のみのセーフモードを立ち上げる。ハードディスクのランプがつきっぱなしになる。何時間かかるのか分からないので、そのまま放置して仕事に出かけた。

数時間後、仕事から戻ってみると、どうやらもくろみは成功していたらしい。パソコンはCHKDSKコマンドを完了させ、再起動していた。イベントログには、ちゃんと "Windows has finished checking your disk.
Please wait while your computer restarts." というメッセージが残っていたから、修復作業は完了したはずだ。念のため、もう一度コンソール画面で chkdsk /f を実行しパソコンを再起動させてみると、今回はセーフモードにするまでもなく、スケジューリングされたCHKDSKコマンドがちゃんと機能した。問題解決である。

しかし、結局のところ、これはまぐれ当たりであった。何が悪かったのかも、なぜ解決したのかも全く分からない。この世は謎に満ちている。

2004.08.03

ひまわり その7

鉢植えのひまわりが咲き始めた。とりあえずひとつ。あとふたつ、すでに花びらが色づいているものがあり、こちらはたぶん2日以内に咲くだろう。

今日咲いた花もまだ完全には開いていないが、大きさは直径7センチくらいになりそうだ。花の中央部、つまり種ができる部分は、直径2センチくらい。一円玉とほぼ同じである。実際に一円玉を添えてみるとほとんど一致する。その周りを、濃い山吹色の小さな花びらが取り囲んでいる。花屋で売られている切花用のひまわりよりもさらに小さい。密植の効果である。期待通りに小さくまとまっていて色もよいのでうれしい。

2004.08.02

日本(または海外)への進出

戦後の日本経済の復興について語るとき、通産省の産業保護政策のことを避けて通ることはできない。海外の有力企業の日本進出に際して、通産省はしばしば、それらの外国企業が日本に100%子会社を作ることを認めず、既にある日本企業との合弁によって進出することを強く求めた。この政策によって、日本の産業は十分な時間をかせぎつつ外国の技術を吸収することができたと言われている。

その事実を否定するつもりはない。ただ、この日本企業との合弁を求めるという通産省の保護政策は、通産省の本来の意図はともかく、結果として、日本企業のみならず日本に進出する外国企業に対しても有形無形の保護と安定をもたらしたように思う。なによりも、まず、海外企業が日本進出するときのリスクをかなり低減していたはずだ。

現地の習慣がよく分かっておらず、現時でビジネスを円滑に進めるためのノウハウがないなら、100%子会社を作って本社からコントロールするのは危険である。コントロールに成功すれば、すなわち、本社の思い通りに子会社を操ることができたとすれば、その子会社は、現時の顧客やパートナーに対して現地でのビジネス慣習を無視した傲慢で無責任な態度をとることになる。それでビジネスが失敗しても何の不思議もない。かといって、本社が子会社のコントロールに失敗すれば、それもまた致命的な失敗である。放漫経営で子会社はつぶれるであろう。どう転んでもうまくない。これは、外国企業が日本に進出する場合の話に限らない。日本企業が外国に出て行く場合にも同じことが言える。

多くの場合、実際には、完全なコントロールが可能になることもなければ完全に野放図な状態に陥ることもない。程度の差はあるにせよ、どこか中庸に落ち着くはずだ。そして、それぞれの状態がもたらす長所がそれぞれの短所を補いあうことができた場合に、現地でのビジネスは成功する(逆に、短所のみが表に出て事業が失敗することもあるが)。

コントロールをどこまで緩めるかについては、あまり心配しなくてよいと思う。「これこれは現地の裁量に任せる。」と、明示的に権限の委譲をしていなくても、現地スタッフは本社の裏をかくものである。そして、そういう『生意気な連中』が、この種のやっかいな問題を解決する。

『生意気な連中』の力を平和利用するため最も必要なものは、本社の現地に対する敬意だと、私は思う。それがなければ、『生意気な連中』は、ただ本社をペテンにかけるだけの策士になる。本社が現地を軽蔑しているとき、それが現地にとって「どうしようもないこと」であるなら、現地としては本社にいっぱい食わせて金をせしめるくらいしか、やることはない。それ以外にどんな生き方があるというのだ。本社の目を盗んでどんなに立派な成果をあげても、本社から敬意を持って評価されることはない。自分の身を危険にさらしてまで事業に貢献しようという馬鹿はいない。

経済的な力関係として、本社は海外の支社に対して絶対的な生殺与奪権を持つ。そのため、本社がどんなに愚かであっても、支社は本社に従うか本社を騙すかのどちらかしか選べない。本社が現地を軽蔑しているとき、支社が本社を教育し正しい方向に導くなどということは、絶対にありえない。それが可能なのは、最初から本社が現地に対して敬意を持って耳を傾ける用意がある場合だけである。合弁の場合でも生殺与奪権がなくなるわけではないが、支配力はかなり弱まる。また、現地にある合弁相手の企業に対しても、それなりの配慮をしないわけにいかない。

もちろん、合弁だから成功するとか100%子会社だから失敗するなどと、運命があらかじめ決まっているわけでは決してない。合弁相手に問題があって、こんなことなら100%子会社にしておけばよかったということもあるだろう。しかし、100%子会社という仕組みにも事業失敗の可能性を高める要因があることを、本社は忘れてはならないと思う。

逆説的だが、自由にコントロールできるからこそ事業が失敗してしまうこともある。なぜなら、コントローラーが正しいとは限らないのだから。そして、多かれ少なかれ間違いは必ずどこかにひそんでいる。コントローラー側が間違っている可能性を自覚するためには、現地に対する敬意が必要である。それなくして、海外での事業が成功することはない。馬鹿げた間違いはもうたくさんである。

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