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2004.07.31

カランコエ その5

昨日は、台風に備えて鉢やプランターをあちこちに移動した(結局、杞憂だったが)。

カランコエの花色の濃さは日当たりによって変わると、以前書いた。確かにその通り。鉢を動かしていて気がついたが、1週間前には純白の二重咲だと思っていたものが、いつ頃からか、一つの花の中に、ところどころピンク(ごく薄い赤紫)が混ざるようになった。薄い黄色だったものは、中央に赤のワンポイントが入る。もともと2色咲きだったものは、色のコントラストが強くなった。買ってきてかなり日数がたったものもあり、今ごろになって急に色味が濃くなった理由はよく分からない。1年前に買った白は、今でも真っ白である。

カランコエは短日植物で、基本的には秋から春にかけての花である。今の季節に花をたたえて売られているものは、農場で栽培するときに一日に日の当たる時間を短くして、花芽を作らせている。家庭でやるなら、段ボール箱か何かをかぶせて夜を長くしてやるだけでよいそうだ。

我が家のものは、そういう作業をせずほったらかしなので、去年買ってプランターに植え替えたものは今の季節ほとんど花をつけていない。水と日光を受け取り、青々と茂り、やたらと大きく育っているだけである。秋になれば、びっしりと花が咲くはずだが、この様子だと、去年より色味は濃くなるのだろうと思う。

2004.07.30

ひまわり その6

水曜日のことだったが、仕事から帰ってみると、ひまわりを植えていた植木鉢のひとつが風で倒れていた。ひまわりは植木鉢の大きさに比べて背が高くなるので、風で倒れやすい。露地植えにして風で倒された場合だと、茎がどこか折れてしまうのだが、幸か不幸か、植木鉢もろとも倒れているのでとくに損傷はなさそうだった。

今回倒れたひまわりは、直径15センチくらいの鉢に8本と、かなり密に植えてある。現在、いずれも50センチくらいに伸びていて、頂点には直径3センチくらいの花芽がついている。茎の太さはせいぜい数ミリ。花芽は、まだ硬く閉じている。いずれ、直径数センチの小さな花が咲くはずだ。もう一鉢、同じ大きさの鉢に同じように種を蒔いたものは、一週間後に蒔いたので花芽はまだ小さい。また、もっと大きな鉢も試しているが、こちらはさらに後になって種を蒔いたので、花芽はまだ全くない。

今日は、台風が近づいているという話だったので、念のため風呂場に植木鉢を移したが、結局、私の住んでいるあたりでは何事もなかった。まあ、飛ばされてどこかに転がっているのを見つけるよりはマシである。

2004.07.29

解説が雑なTOEIC参考書

ある出版社のTOEIC模擬試験問題集に、奇妙な説明文があった。誰にでも間違いはあるし、一問や二問、ちょっと変な出題があっても大勢に影響はないとは思う。が、出題も解答も正しいのに、その解説文だけが間違っているというのは、どういうことだろう。ある問題についての説明が的外れで、その説明を信じると正しい選択肢を見つけることができない。にもかかわらず、正解として示されているものは正しいのである。

TOEICのリーディング問題パート5は、受験者にわざと間違いを混ぜた文章を読ませ、文中のどこが間違いなのか答えさせるという形式になっている。埋め込まれている間違いは、微妙な点を突いていることもあるし、形容詞の使い方のように、辞書を見れば一発で誤用だと分かるあからさまなものもある。私が問題集の解説を見ていて気になったのは、「辞書を見れば一発で間違いだと判明するもの」についての説明文である。

この種の問題に対する解説は、文法の間違いと同じで、「辞書を見よ。この単語は、こういう使い方をするのが通例であって、問題文にあるような使い方はしない。」と書くだけでよい。正しさの根拠は、辞書に任せてしまえばよい。微妙なニュアンスや感性が入る余地はないはずだ。ところが、そういうあからさまな問題に対して、どういうわけか、「文の意味から考えて、こうでなければならない」と、あたかもニュアンスや感性の問題であるかのような説明をしている問題集がたまにある。問題の作成者自身が説明を書いているのであれば、こんなことが起こるとは考えにくい。

確かに、受験者は、感性によって本能的に正解を見つけ出すことがある。英語に慣れている人なら、いちいち考え込んだりせずとも、「何だか理由は分からないけど、ここは変だぞ」と、反射的に間違った部分に気が付くようになる。しかし出題者は、意図的に間違った文を組み立てているはずだ。何となく間違った文章を作ってしまったわけではなく、特定の単語の正しい使い方を受験者がちゃんと知っているかどうかチェックするために、わざと間違った使い方をしているはずだ。間違いの理由を説明できないはずはない。

どうやら、この本は、アメリカの教材会社が作った模擬試験問題を日本の出版社が買いつけ、後から日本人が解説文を付け加えたもののようだ。解説を書く人は、あらかじめ正解を知っていて後付けで正当性を説明する文章を書くため、うっかりして雑な解説を書いてしまったのだろう。

普通の人が日常の中で言葉遣いについて論じるなら、「この言い方は私の感性にあわない。なんだか気持ち悪い」で、十分だと思う。しかし、参考書や問題集の中で、解説者がそれをやるのは勘弁して欲しいと思った。

2004.07.28

Jane Eyre

少し前に、「ジェーン・オースティンの作品は、誰も死なないのがいい。安心して読める」と書いたが、もちろん19世紀の女流作家の中にも、厳しい社会情勢をえぐり出すような作品は存在する。

例えば、ジェーン・オースティン(1775-1817)から数十年後に活躍した、シャーロット・ブロンテ(1816-1855)の1847年の作品、『ジェーン・エア』は、かなりすごい内容で、こういう本が当時の世の中でよく出版できたなと思えるほどである。いやいや、当時の悲惨な社会情勢があればこそ、こういう作品が出来上がったのだとも言えるのだが、真実を突いているがゆえに著者はかなり敵を作ったのではないだろうかと思った。

(なお、上記のリンクは、本の朗読を録音したカセットテープ版の製品へのリンクである。原作の著作権はとうに切れているので、通常の書籍は複数の出版社から低価格で発売されている。さらに、インターネット上で探すとテキストファイルもみつかる。)

推理小説のようなどんでん返しもあるので、この作品の具体的なストーリーについてはあまり触れたくない。悲惨な幼年時代を送った孤児ジェーン・エアが主人公であり、彼女は、見かけの美しさではなく自らの知性と意志の強さによって自立する。この本は、彼女の波乱に富んだ人生と命がけの愛の物語である。恋人となる男性ロチェスターも、美男ではない。また、二人とも決して凡人ではない。

作品はジェーンの一人称で書かれている。作品の初めから第9章まではジェーンの生い立ちに関する記述であり、正直な話、私はこの部分については何度も読む気がしない。当時の寄宿学校の生活環境についての描写は、著者ブロンテ自身の実体験が含まれているらしい。著者が子供の頃に、著者の姉二人が死んでいる。当時の寄宿学校での生活がもたらす悪影響は、ときとして命に関わるものだったようだ。

ストーリーが大きく進展し始めるのは、ジェーンが自ら職を求め学校から旅立つ第10章からである。彼女が選んだ governess という仕事については、『ガヴァネス(女家庭教師)―ヴィクトリア時代の〈余った〉女たち』を読むと作品への理解が深まると思う。ただし、この本は、後半部でいろいろな小説の結末を詳細に種明かししている。『ジェーン・エア』についても、まるで推理小説の犯人を名指ししトリックを全部ばらしてしまうかのようなことをしているので、前半部だけを読むことをお勧めする。

『ジェーン・エア』の登場人物の性格はたいへんユニークである。作中でロチェスターはジェーンに始めた会った翌日に、「妖精に魔法をかけられたのかと思った」(When you came on me in Hay Lane last night, I thought unaccountably of fairy tales, and had half a mind to demand whether you had bewitched my horse: I am not sure yet.)というようなことを言う。似たようなセリフは後にも出てくる。

この「妖精」は、トールキン以降にイメージとして一般化した美しく長命な生き物たちではない。やせてちっぽけな、どちらかといえば醜い生き物のことであり、悪ではないにせよ、少なくとも美人という意味は全くない。もっとも、ロチェスターが彼女のことを妖精と呼ぶとき、彼は絶対にジェーンのことを悪く言っているわけではないのだが。

ロチェスターが芝居がかった大仰なセリフを吐き、それにジェーンがくそ真面目に返答するという様子は、作品中に何度かあり、読んでいておもしろい。最後には彼女も、you talk of my being a fairy, but I am sure, you are more like a brownie. などという。お似合いの二人である。

『ジェーン・エア』の和訳は、おそらくどこの図書館にも置いてあるはずだ。「ロマンチックな長台詞」が生理的に苦になるという人にはお勧めしないが、そうでないなら、単なる恋愛物語と違うスリリングなストーリーなので、読んでみると面白いかも知れない。

大きな図書館なら、英語の原書も置いてあると思う。私が住んでいる市の市立図書館で検索してみたところ、市内の図書館に、原書は7冊、翻訳はその倍以上あった。児童書の棚には、少女漫画化されたものもあった。

2004.07.27

カランコエ その4

昨日は、もうひとつ園芸関連の話があった。路上に落ちていたグラジオラスを拾った後、仕事場に出かけるために電車に乗り、通勤途中の乗換駅で途中下車し、駅前の花屋でカランコエを3つ買った。

今回買ったのは、二重咲きの白、赤紫、そして(すでに持っているものよりは)濃い黄色。二重咲きを買うのは今回が初めてだ。赤紫は既に買っているので、現在手元にあるバリエーションはこれで14種類になる。もっとも、色の濃い薄いは生育条件によってかなり変わるので、本当に14種類あるのかどうかは、ちょっと心許ない。とりあえず以下のようになっている。


白(二重)
ピンク
薄い黄色
濃い黄色
薄いオレンジ
濃いオレンジ
赤紫
濃い紅色
白とピンクの絞り
薄めの柿色と白のまだら
中央が黄色で先端がオレンジ
うすい緑色の地に柿色の縁取り
うすい黄色でところどころにピンク色の線が入る

2004.07.26

路上にグラジオラスの球根

この題名は、奇をてらったわけでも、何かの比喩を意図しているわけでもない。題に書いたとおり、我が家の前から最寄り駅に至るまでの路上に、グラジオラスの球根が全部で7つ、てんてんと落ちていた。

仕事場に行くため家を出る。数メートル歩いたところで、枯れ草か木の皮の固まりのようなものを路上に見つける。そのまま気にせず歩くと、さらに5メートルほど先に同じようなものがある。何となく見覚えがある色と形をしている。立ち止まって拾い上げてみると、それは、グラジオラスの球根であった。引き返して最初のものを拾ってみると、これもそうである。不思議なこともあるものだ。

それから再度向きを変え駅に向かって歩いていると、角を曲がったところに、さらにふたつ、10メートル先にひとつ・・・ 車に轢かれ、つぶれてしまっているものもあった。これはいったい何ごとか?

球根を拾い上げて観察してみると奇妙なところがある。いや、そもそも、真夏のアスファルト道路にこんなものが落ちているというだけでも十分奇妙なのだが、それはさておくとして、まず、これらの球根は、明らかに本来の収穫期よりずっと早い時期に掘りあげられたものであった。

グラジオラスの球根は1年限りで「使い捨て」である。球根は、そこから芽を出し葉を伸ばし花を咲かせると、最終的には栄養を全部使い果たし小さくつぶれてしまう。そして、今の球根のすぐ上に新しい球根が成長する。球根から伸びている茎が栄養をため込んで、新しい球根になるのだ。

したがって、グラジオラスを適切な時期に掘りあげてみると、葉と茎の下にはこの夏にできた新しい球根がつながっていて、さらにその下に干し柿のようにしなびた古い球根の成れの果てがくっついているはずである。もちろん、すべての球根植物がそうだというわけではなく、ヒヤシンスなどのように同じ球根が毎年芽を出すものもある。

さて、私が拾った球根は、まだ完全には栄養を使い果たしてない「古い球根」であった。ふたつほど、その上に新しい球根が付いているものもあったが、新しい球根は未成熟で、古い球根の三分の一くらいの大きさしかない。明らかに掘りあげるのが早すぎる。大部分の古い球根からは、その上にあったはずの新しい球根がむしりとられていたが、それらも、来年植えて花を咲かせることができるほどの大きさであったとは思えない。球根を掘りあげた人物は、いったい何を考えていたのだろう。あと1ヶ月は必要だったはずだ。

子供がいたずらをして、どこかの花壇を勝手に掘ってしまったのかとも思ったが、変な点がもうひとつ。根の乾燥ぐあいから見て、掘りあげられたのは昨日や今日ではないように思える。根はすっかり乾燥し、細くなっていた。掘ってすぐに捨てられたわけではなさそうだ。掘りあげてから数日間、どこかに保管してあったのかもしれない。気まぐれないたずらなら、掘り出してすぐに捨てるのではないだろうか。いちおう、何かを収穫する意図はあったようにも思える。

ところで、道路に数メートルおきにぽつんぽつんと捨てられていたのはなぜだろう? 拾い集めながら、「パンくずを点々とならべて小動物をワナに誘い込む図」を思い出してしまったが、これは本当になんだかよく分からない。

2004.07.25

TOEICを受けてきた

まさか、function という単語に、「公式のディナー、パーティ」という意味があるとは思わなかった。こんな単語はとっくに知っていると思って、油断していると足をすくわれるという、典型例だ。試験場では答がわからず、自宅に戻ってから辞書を引いてわかった。6000円払って、単語の意味の一つを覚えたことになる。経験は最良の教師だが授業料が高すぎるね。とはいえ、受験料は既に払ってしまっているのだし、たったひとつでも何か知識を得られるほうが、何も得られないよりよい。

TOEICが点数以外の採点結果を返してくれないのは残念である。他にも取りこぼした問題はたくさんあるだろう。どんな問題を誤答したか間違いを自覚できれば、もっと勉強できるだろうに。もっとも、模擬試験の問題集はたくさんあるのだから、それをきちんとやればいいのだが。

それにしても、いつまでたっても900点の壁が越えられない。やっぱり、ちゃんと参考書を見て勉強するべきか。過去の経験から言っても、確かに、一定期間集中して試験対策をやらないと、点数は伸びないような気がする。今は、漫然と読書を楽しんでいるだけである。

さて、とにかく今日は疲れた。近所の川原でやっている打ち上げ花火の音が盛大に聞こえてくるので、ちょっと見物してこようと思う。

2004.07.24

気晴らしに19世紀の英文学を読む

殺伐とした世界情勢を伝える英字新聞のニュースばかり読んでいると気が重くなるので、ときどき、気晴らしに19世紀のイギリスの小説を読んだりしている。

現在のお気に入りは、ジェーン・オースティンの作品。誰も死なない。登場人物たちは生活に困っていない金持ちばかりだし、作中で起こる大事件とは、せいぜい「誰かと誰かが駆け落ちした」という程度のものだ。いろいろな騒動があっても、最後には主人公たちはめでたく結婚し、不快な人物はそれ相応の罰を受けることになる。すべてが丸く収まるので安心して読むことができ、気晴らしにはもってこいである。

気晴らしに読むとはいうものの、英文そのものは決して現代の新聞より易しいわけではないし、単語の綴りも現在とは違っていることがある。ピアノは、いちいち pianoforte と書いてあった。さらに、単語の意味も現在とは違っていることがあるはずだ。

そもそも、作品の背景となる19世紀のイギリスの貴族社会なんてものに私は全く縁がないので、日本語訳を読んだ後でさえも、自分が話を完全に理解しているかどうか自信はない。したがって、「気晴らしに読んでいる」などという、いかにも余裕のありそうな言い草は、本当はとんでもなく図々しいものであるが、それでも、アマゾン・ドットコムで朗読のテープを買ったりして、自分なりに楽しんでいる。

朗読のテープは、それだけを聞いているとすぐに話が分からなくなるので、普通の本も買って、活字を目で追いながら聞いている。補助輪つきの自転車に乗るようなものだ。さらに、日本語の訳本もあらかじめ読んでおき、頭の中にあらすじを組み立てておいてから英語の原作に取り組んでいる。英文の読解力を鍛えるなどということからは程遠い。

軟弱かも知れないが、苦しんで勉強しようとしても長続きしないし、趣味と勉強の中間くらいにしておくのが一番いいと思う。テープに吹き込まれた俳優の名演を聞くのは、きちんと聞き取れない今でも十分楽しい。いずれ完全に聞き取れるようになる日が来るかどうか、それは分からない。だが、今よりマシな聞き手になることができれば今よりもっと楽しくなるだろう、とは思う。

完全に理解できる日が来ることは、たぶんない。中年になってから日本語の勉強を始めた外国人が、漱石や鴎外を完全に理解できるようになるだろうか。ありえないとは言わないが凡人には無理だろうし、その必要もない。私は楽しいものを求めつつ、気が向いたときに英語の本を読みテープを聴く。それだけのことである。英語を職業とする人なら、こんな甘いことは言っていられないだろうが、私は英語の専門家ではないからいいのだ。

最近聞いた『マンスフィールド・パーク』は、楽しかった。この朗読は、本の内容を省略なしに全部読み上げた12本組のカセット(16時間25分)で、たっぷり楽しむことができる。

外国製品にはよくあることだが、残念なことに12本のカセットのうち数本は、テープにしわがよっていてたまに音声がおかしくなる。他の製品でも、テープの伸びやシワは珍しくない。CDにも不良品はあったが、テープよりは安全だと思うので、同じ朗読でCD版があるならそちらを買っている。ただし、日本とは違い海外ではいまだにカセットテープが全盛らしく、本の朗読もテープ版のみとして商品化されているもののほうが圧倒的に多い。CD版という選択肢はあまりない。上に書いたマンスフィールド・パークにもCD版があるにはあるが、ディスク3枚に要約した短縮版である。

アマゾンは、不良品については送料無料で返品を受け付けてくれるし代替品の取り寄せもすぐに手配してくれるのだが、カセットテープの場合、出版社にある在庫品の保存状態が悪いのだろうか、交換しても問題が改善されるとは限らない。少々の不具合はもう気にしないことにして、そのまま聞いている。

2004.07.23

愚かな設計

1年ちょっと前に買ったMP3対応のMD・CDラジカセは、電源スイッチを切っていても一定時間が経過すると勝手に電源スイッチが入り、このラジカセの宣伝文句を延々と表示し始める。設計者は、この商品が店頭に陳列されたときに、店員が何もしなくてもラジカセ自身が自動的に宣伝するようにしておいたほうが便利だと考えて、そういう設計にしたのであろう。

リモコンであれこれと設定すれば、この勝手に始まる宣伝は解除できる。が、ラジカセを隣の部屋に持って行こうとしてコンセントを抜くと、元の木阿弥である。どうして、こういう馬鹿げた設計をするのか。購入した後に、電気代自己負担で既に買ってしまった製品の宣伝を見せ付けられる顧客のことは、設計者の眼中になかったに違いない。どうせ製品は売れてしまった後なのだから、メーカーにしてみれば「後は野となれ山となれ」というわけだ。

一方、CDラジカセ本来の設計にもおかしなところがあり、MP3に対応しているのはありがたいのだが、99トラック以上が録音されている音楽CDやオーディオブックでは、選曲がうまく行かない。カセットテープを再生していると、テープの途中で突然オートリバースが働くこともある。テープからMDにダビングしてみると、曲間の切り出しがおかしく、無音部分が無駄に録音されたり、十分音量の大きいにもかかわらず曲の頭が切れたりする。おそらく機械的な問題ではなく、ソフトウェアの設計の問題だ。

少し前に「パソコンは家電になれない」と書いたが、家電製品も、ソフトウェアが設計の主要部を占めるようになるにつれて、設計がおかしくなっているように思う。

ところで、勝手に始まる宣伝については、簡単な対処法があった。使わないときはコンセントを抜きっぱなしにしておけばよいのだ。このラジカセには時計が内蔵されていて、コンセントを抜くと時刻の設定が消えてしまうが、特に困ることはない。

2004.07.22

英字新聞

英語の勉強をしなおそうと思い立ったのが1年半前のこと。その一環として、数ヶ月前からデイリーヨミウリの定期購読を始めた。これは一番安い英字新聞で、一部120円である。普通の読売新聞より安く、最近ではコンビニエンスストアでも一部売りしている。新聞販売店によっては、普通の読売新聞を定期購読すれば英字紙は無料でサービスするというところもある。もちろん、これは読売新聞社が公式にやっている値引き販売ではなく、販売店が自主的にやっていることなので、どこの販売店でも応じてくれるとは限らないが。

さて、新聞を読んで現代社会の日常について知るのはいいのだが、デイリーヨミウリは外国の新聞や雑誌の記事を日本にいる読者向けに伝えているもので、国際情勢に関するページが大部分を占めている。つまり、どこそこで自爆テロがあった、洪水があった、どこかの政府がどこかの政府を非難したというような話が中心である。

日本語の新聞なら、あまり好きでない話題はさっと斜め読みすることができるが、英語については、私はいまだ初心者の域を出ないので、英字新聞を読むとなるとかなり神経を集中する必要がある。そして、悲惨な話題を真剣に読んでいると、気が滅入ってくる。こんなものを読むために英語を勉強を始めたわけではないぞと、放り出したくなる。さきに書いたようにデイリーヨミウリの場合は、紙面の8割程度は外国のあちこちの新聞の転載なので、同じ話題の記事が何度も重複する傾向がある。異なる新聞社が異なる視点から取り上げているとはいえ、イラクの刑務所の拷問問題を写真入りで何度も読むのはつらかった。

英語の勉強のために、英字新聞を試しに一部だけ買って様子をみたいという人には、火曜日のデイリーヨミウリをおすすめしたい。デイリーヨミウリは、決まって火曜日に、かなり紙面を割いて科学、自然、コンピュータなどについて特集していて、この日は他の日より話題の幅が広い。もちろん、政治経済の話も載っている。

2004.07.21

カランコエ その3

一昨日に買ったものが淡色系だったので、今日は、濃い目のものを2色追加。今回は、濃い紅色のものと、中央が黄色で先端がオレンジのもの。これで12色集まった。店頭にはうすい紫や白の二重もあったが、今回は見送り。

現在手元にある花色は、以下の通り。


ピンク
薄い黄色
薄いオレンジ
濃いオレンジ
赤紫
濃い紅色
白とピンクの絞り
薄めの柿色と白のまだら
中央が黄色で先端がオレンジ
うすい緑色の地に柿色の縁取り
うすい黄色でところどころにピンク色の線が入る

カランコエ その2

一昨日、近所のスーパーでカランコエをさらに2色買い足した。うすい緑色の地に柿色の縁取りのものと、そして薄い黄色でところどころにピンク色の線が入っているものだ。

カランコエは、単色でもバリエーションも多いが、微妙に色が混ざっているものはさらに際限がない。もっとも、カランコエの発色は日当たりのよさにかなりの影響を受け、日当たりが悪いと色が薄くなる。色の濃さが違うと思って買ったふたつの鉢が、日当たりのいいところで育てたら結局同じになったこともあった。

去年店頭で見かけたときに比べ、今年は花色も増え値段が安くなったように思う。気をつけてみていると、いきなり「3個で100円」などという表示に出くわす。栽培・出荷している園芸農家が増えたのだろうか。

2004.07.20

ひまわり その5

少し前に書いたように、露地植えのヒマワリはほぼ全滅してしまった。そこで、種をいきなり地面にまくのはやめ、プラスチックのポットである程度育ててから移植することにして、そのための苗を育て始めたのが約10日前。十分大きくなったので、今朝、地面に植え替えた。

そして午後。今日はあまりに暑いので、どうなっているだろうかと思ってみてみたら、バッタがむしゃむしゃと葉っぱを食い荒らしている真っ最中だった。ほほう、キミ、目ざといねぇ。

この種類のバッタは、カランコエの周りでも見かけたことがあるのだが、こちらはほとんど食われていない。バッタにも好き嫌いはあるのだろう。とりあえずお引取り願ったが、我が家の周りの環境では、ヒマワリは鉢植えのほうがいいかも知れない。

鉢植えのヒマワリは、すでに12本近くが花芽をつけている。鉢が小さいので花もかなり小さいものになるはずだが、それはそれで可憐である。

狩猟民族と農耕民族

日本と外国との関係を論じている新聞や雑誌の記事において、何十年も前から繰り返し言われている便利な言葉に「日本人は農耕民族で、西洋人は狩猟民族だから・・・」というものがある。異なる種類の民族だから話がかみ合わないのは当然だという説明に、よく利用される言い回しだが、本当だろうか?

縄文時代に日本列島に住んでいたのは狩猟採取によって生計を立てていた人たちであり、この地で農業が始まったのは人類の歴史から見ればごく最近のことである。日本における農業の歴史が他の民族より特に長いわけでもなく、確かに今の日本人は農耕民族だろうが、特別にいうほどではない。

一方、『西洋人は狩猟民族だ』というのは、いったい西洋のどこをさして言っているのだろう? ローマやギリシャの文明が花開いたのはいつか? そのとき彼らは農業をやっていなかったのか? 農業があってこそ都市や政府は存在できるのだし、軍隊を養うこともできる。西洋という言葉がローマやギリシャの文明を含めていうのであれば(そのはずだと思う)、日本列島で農業が始まるよりもずっと前から西洋では農業をやっているのだ。それとも、ローマやギリシャは西洋の民族の歴史から除外して考えるべきものなのだろうか?

「われわれ」が狩猟採取民族を野蛮人呼ばわりするのは、単に、現在「われわれ」が農耕民族というクラスに属しているからというだけの理由からであって、それ以上の正当な理由などない。そして、『西洋人は狩猟民族だ』という主張は、「やつら」は「われわれ」より野蛮だから狩猟民族であるはずだという、逆転した理由付けによるものであると思う。

しかし、実のところ、西洋は日本以上に農耕民族であるがゆえに、たくさんの戦争を経験しているのである。それは中国大陸の歴史を見てもいえる。日本では狩猟採取によって人々が生きていた時代に、大陸では、農業と、その生産力を支えとした高度に政治的な戦争が行われていた。

「日本人は農耕民族だから」という根拠の薄いセリフは、捨てたほうがよい。確かに、日本には日本固有の歴史的背景があり農業もその一部であるが、「農耕民族だから」という説明は単純すぎると思う。また、「西洋人は狩猟民族だから」に至っては論外であり、私は、新聞や雑誌の記事を読んでいてそういう記述に出くわしたら、それ以上先には読み進まない。

2004.07.19

人類が最初に家畜化した動物

もちろん、人類が最初に家畜化した動物とは、人類それ自身にほかならない。

比喩的な話ではない。動物の一種としてみた場合、人類には、家畜化された動物に共通して見られるいろいろな変化---例えば全体に体毛が薄くなる、繁殖回数が増える、成熟までの期間が延びる---などが、たくさんある。それも、かなり極端にである。

人間という生き物が家畜の特徴を持っているという事実は、善悪とは関係ない動物学的なものに過ぎないが、人間が家畜に近い生き物であるならば(そうでないはずがない、と私は確信しているのだが)、『現代人は野生を失っている』などと嘆くのは馬鹿げている。1万年以上かけて家畜化してきた動物に、今さら野生を求めてもしかたないではないか。

現代人は人生の三分の一近い期間を教育にあてているが、教育とは要するに家畜の調教であり、「飼い主がいちいち監視していなくても強制しなくても、飼い主が決めたルールに従って自分から動く」ように仕込んでいるわけである。なお、ここで言う飼い主とは、親や教師のことではなく文明社会全体をさす。

ここで重要なことがひとつ。もともと子供は放っておけば自主的に手前勝手なことをしでかすものであり、本来なら「自分から動く」という点についてわざわざ教え込む必要はない。子供は目を離すと何をするか分かったものではなく、したがって教え込むべきは「ルールに従う」という点であるし、実際にも徹底的に教え込まれている。それは結構なことだが、長期にわたるこの調教によって生まれつき備えていた自主性を消滅させておいて、『今の子供には自主性がない』とは、いい気な飼い主たちである。

私は教育不要論を唱えているわけではない。ルールの強制も否定しない。そうしなければ文明は維持できない。今さら野生動物に戻るわけにはいかない。問題は、教育の結果としてもたらされた副作用を、あたかも子供の側の責任であるかのように論じる風潮である。調教どおりに動くようにしつけておいて、「調教どおりにしか動かない」と嘆くのは筋が通らない。

そして、これは子供の問題にかぎらない。大人でも同じことである。教科書がなくても教師がいなくても、学校以外の場であっても、大人同士であっても、人間は互いに調教しあうのだ。何かと引き合いに出される大企業の事なかれ主義も、不断の社員教育のたまものである。日本発の技術提案の少なさ、社会の構造改革が遅々として進まないこと、少子化・・・ いずれも日本の文明社会を維持すべくなされてきた広い意味での調教の結果である。何事にも作用と副作用があり、その区別は恣意的なものに過ぎない。

もし、現在の社会なり会社なりのありさまが気に食わないのであれば、更なる調教の追加を検討するするのも結構だが、まず現時点での調教がもたらしている副作用について検討すべきであろう。

2004.07.18

その本の読者は誰なのか?

少し前に、このページで Basic English について取り上げた。語彙と文法を大幅に制限しているので、Basic English の表現力には当然ながら限界があるのだが、しかし、「かなり厳しい制限をもうけているにもかかわらず、その制限からは思いもよらないほど多彩な表現が可能である」ということ、すなわち、「限界はあるけれども、実用品として使うことができるし、英語の学習にも大きな効果がある」ということが、Basic English の興味深いところなのである。

さて、日本で出版されている Basic English に関する本をいくつか調べていて、ちょっと嫌な雰囲気を味わうことがあった。Basic English の限界を正当化しようとしている、奇妙に言い訳がましい本があったからである。それは無理だと思う。

言い訳を書く著者の気持ちは想像できる。同業の英語学者や英語教師から、さんざん「こんなものはダメだ」と言いがかりをつけられてきたので、防衛しないわけにはいかないのであろう。完全な言いがかりではなく、的を射た、したがって何か反論しないわけにはいかない批判も少なからずあったろう。

言い訳の理由はわかるとして、では、Basic English の本で私が見かけたそれは、いったい「誰」に向けたものなのだろうか? 英語の勉強を始めようと思って、その本を手に取った読者に向けたメッセージなのか? それなら全く問題はない。新しい概念の勉強は不安に満ちたことだから、著者は読者の不安を取り除くべきであり、言い訳はけっして悪くない。むしろ「こんなに制限しても、実は大丈夫なんですよ。なぜなら・・・」という説明は、学習者向けに必ずやっておくべきことだと思う。

しかし、私が読んだある本の中には、一般人向けの英語入門書という形式で出版されているにもかかわらず、「英語を学ぼうとしている初心者」ではなく「英語を教えたり研究したりしている同業者」を意識して言い訳をしているのではないか? と感じさせるものがあった。

これはよくない。読者(学習者)にとっては、何の意味もない。本を書く人は、『自分の顧客は誰なのか』を常に意識して欲しい。それが英語学習者向けの本であるなら、その読者は、例えば、日常の仕事の中でとにかく英文メールを書き海外の同僚や顧客と話をつけなければならないから、英語を勉強している人たちなのだ。学者ではない。買った本が自分の勉強の役に立つなら、読者は喜んでその本を歓迎し高く評価する。学者同士の議論なんてどうでもいい。

誰が自分の顧客なのかを見失うと、商売は失敗する。物書きであっても同じである。

2004.07.17

『どうしようもないこと』との付き合い方

7月16日に書いた『どうしようもないことは、どうしようもない』に対して、「それでも何とかしなければいけない時はどうするの?」という質問を受けた。

答:どうしようもない

何はともあれ、最低限「これは、<現時点では>どうしようもないのだ」という事実は事実として受け入れなければならない。事実を正しく認識することこそが、問題と付き合うための第一歩なのだから。

もちろん、現在どうしようもないからといって、未来永劫に渡ってどうしようもないとは限らない。しかし、アナタが生きている間にどうにかなることなのか、ワタシが在職中にどうにかなることなのか、という点を十分に検討する必要がある。また、事実は時間とともに変化するので、現状を観察し続ける必要もある。

「あのクソ社長は再教育が不可能だから、死ぬか退陣するまではどうしようもない」ということなら、それまで待つしかない。まさか、16日に取り上げた本のストーリーのように毒を盛るわけにはいかないのだから。長年耐え忍んだ末に、アナタがおかれている立場が変われば、例えば、投資家の支持を得てアナタが合法的に社長を解任できる立場になったのであれば、社長の首を切ればいい。しかし、アナタが下っ端である限りは、社長を解任することも再教育することも不可能である。これを動かしがたい事実として認識しない限り、アナタは不幸になる。

事実を認識した上で、次の4通りの方針が考えられると思う。すなわち、事実を---

(1)受け入れて、無気力になる
(2)受け入れて、自分も病んだ政治家になる
(3)受け入れて、病んだ政治家と取り引きする
(4)受け入れず、逃走する

これ以外の選択肢は、たぶんない。「(5)受け入れず、あくまでも抗戦する」は、ただの自滅である。なぜなら、その道では、上に挙げた(1)から(3)を選択した多数の同僚たちとも戦うことになるからだ。アナタは、病んだ政治家に対してだけではなく、隣の席にいるアナタの同僚たちをも敵にまわし危害を加えることになる。そうならざるを得ない。そして、アナタは何の成果をあげることもなく、ひどい苦痛を味わった末に職場を追われるだけである。そんな策を選ぶくらいなら、「(1)無気力」か、または、新天地を求める準備を整えた上で「(4)逃走」を選ぶほうがマシである。(5)を選べば、どうせ職場を追われるのだから。

教科書的な解答はおそらく「(3)取り引き」であろう。あんなクズどもとは取り引きしたくない? よろしい、では(1)(2)(4)のどれかをお選び頂こう。他に選択肢はない。

大抵の組織人の行動は、多かれ少なかれ(1)から(3)が混ざったものだと思う。どのような割合で混ざっているかは、もちろん人によって異なる。頭の中が(2)だけで占められると、最近懲戒解雇されたどこかの自動車メーカーの部長級社員のように、重大な書類を偽造し会社に壊滅的なダメージを与えることになるが、しかし、この人物は、そもそも会社を取り巻く状況が激変している事実を理解していかなった。

もし事実を理解していたのなら、どんなに利己的で病んだ政治家であろうとも、自分は懲戒解雇され会社には壊滅的な損害をもたらすようなことをやったりするはずはない。1番目と2番目の選択肢の恐ろしさは、そんなことをしていると、やがて事実を理解する能力を失うという点にある。

実のところ、ある人間のある行為が善意に由来するものなのか私利私欲から発せられたものなのは、ほとんどの場合、意味のない瑣末なことである。あの社員が会社のためを思い善意から報告書を偽造したのだとしても、そんなことはどうでもよい。世間を欺いたという事実のみが評価される。

同様なことは、「(5)受け入れず、あくまでも抗戦する」にも当てはまる。たとえ正義感からであろうとも、ただ同僚を傷つけるだけで会社の改革には何一つ寄与しないようなことをやって、一体何になるというのだ? そんなものは改革ではない。改革ごっこである。改革をしたいなら「(3)受け入れて、病んだ政治家と取り引きする」を選ぶしかない。どんなに不愉快な相手であっても、お互いの立場と力関係を理解したうえで商談相手として取り引きしなければならない。

もちろん、力関係が変わってしまえば、態度も変えてよい。大切なことは、互いの力関係に限らず、会社全体、世の中のことも含め、とにかく事実を観察し、不愉快であろうとも事実は事実として受け入れることである。不断の観察と分析のみが、アナタが組織の中で生き延びる力をもたらすのだ。アナタの思想信条がどうであろうとも、事実のほうが強い。

私は、そういうことに気がつくことなく、長年にわたって複数の会社を渡り歩いてきた。そして愚かな失敗を繰り返してきた。過去を嘆いても今さらどうしようもないが、授業料はかなり高くついているように思う。なおかつ、授業はまだ終わっていない。

2004.07.16

魅力的な見切り品は、すぐに完売する

11日に近所のスーパーで見かけた花の苗を買うつもりで、数日振りに店に行ったら、売り場が閉鎖されたのかと思ったくらいきれいさっぱり商品が消えていた。6色そろえるつもりだった松葉ぼたんも、ひとつも残っていなかった。

わずかに残っていた商品の値札を見て納得。値札には価格を改定した後がいくつもあった。今や、ひとつ20円・30円といった捨て値でさばかれている。生ものだし、店頭に置いていても花はどんどん咲いていってしまう。そして炎天下に陳列しているのだから苗の痛みも早い。一定期間陳列したら手早く処分して、次の季節向けに新しい品種に入れ替えるということのようだった。

教訓:見切り品を見て欲しいと思ったら、すぐに買うこと。

どうしようもないことは、どうしようもない

図書館でトム・デマルコの『デッドライン』を借りて読んだ。ソフトウェア開発のプロジェクト管理にまつわるやっかいな問題を主人公がどのように解決するかを、物語形式にして紹介している本だ。アマゾンの書評欄にいろいろな読者の意見が載っている。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4822280535/

この本のストーリーを通じて、著者は、プロジェクトが陥りがちな問題を予防したり解決したりするための基本的な手法をいくつか紹介しているのだが、しかし著者は、対処不可能でただ祈るしかない問題が存在することも明記している。

この本の中では、そういう絶望的な問題を無理やり解決するため、「スパイが、問題の原因となっている人物に病原菌を一服盛って、外国の病院に送り込んでしまう」という実にあっぱれな解決策を使っている。まあストーリーの進行上仕方あるまい。そうしなければ、この作品のラストは「愚かな政治家のせいで、プロジェクトは完全に破綻しみんな不幸になってしまった」という結末にしかなりえないのだから。

とはいうものの、現実の世界ではこういう手法は使えない。この点について、著者は、第21章のまとめにこんなことを書いている。

病んだ政治
●病んだ政治を下から解決することはできない。むだな努力で時間を浪費したり、自分の立場を危険にさらす必要はない。
●問題が自然に解決するか、行動するチャンスが来るのを待つしかない場合もある。
●奇跡が起こることもある(だが、あてにしてはいけない)。

著者はこの本の全編を通じて、そして他の著作(たとえば『ピープルウェア』)でも、「苦しくても問題は解決できる。前向きに、明るく仕事をしていこうよ」と読者に訴えかけている。しかし、世の中にはどうしようもないことが存在することも事実であり、どうしようもないことについてはエネルギーを使うなと戒めてもいるのだ。全くその通りだと思う。どうしようもないことは、どうしようもないのだから、そんなことに関わってはいけない。

ただ、ひとつだけ問題が残る。自分が直面している仕事上の課題が、解決不可能な『病んだ政治』に起因するものであるかどうか、どうやれば分かるのだろう? この本では、話の途中に突然登場するひとりの邪悪な政治家が事態を悪化させたので、主人公も読者も、これが毒でも盛らない限り解決不可能な『病んだ政治』の問題であることは即座に理解できる。

しかし、多くのプロジェクトの場合、病んだ政治のせいでそれが破綻したと分かるのは破綻後である。そもそも政治はひとりでやるものではなく、複数の人間の思惑と利害関係が絡むからこそ政治というものが登場するのだ。多数の関係者が自己欺瞞に陥っているとき、病んだ政治の問題は個人の欲望ではなくプロジェクト全体の技術や営業や経費の問題にすり替えられていて、参加している当事者たちには何が本当の問題なのか理解できない。また、理解することを望まない。そして、どうしようもないことに対する存在しない解決策を求めてデスマーチが続くことになる。

どうしようもない問題にエネルギーを浪費してしまうことになる。と、いうことさえもが、どうしようもないことなのかも知れない。

2004.07.15

パソコンは家電になれない

少し前に電気屋さんの店頭で見たモンスターズ・インクのDVDが面白そうだったで、amazon.co.jp に注文し、昨日とどいた。そのディスクをこの文章を書くのにも使っているパソコンで見ようとして、パソコンの信頼性の低さに愕然とする。よりにもよって、クライマックスの部分で、Windows Media Player は「問題が発生したため、wmplayer.exe を終了します。」と仰る。何も言わずに、パソコンがいきなり再起動することもあった(が、これは、以前 RealPlayerでもあったのでおそらくビデオカードのドライバの問題だろう)。

パソコンもOSもアプリケーションも、家電製品、すなわち「DVDプレイヤーとしての品質が保証されている、単一の機械」とは違って、DVDがうまく再生できなかったとしても責任の所在は不明である。これはDVDに限った話ではない。そして、パソコンのOSがWindowsだからどうだこうだ、というような話でもない。Linuxでも何も変わらない。

複数の会社のハードウェア製品とソフトウェア製品を寄せ集めて作られているという点では、パソコンも家電製品も本来同じである。電器メーカーが全ての部品を内製しているなどということはなく、多かれ少なかれ他社の製品が組み込まれている。

しかし、普通の家電製品が開発・設計段階であらかじめ製品の最終的な用途を決めていて、その特定用途を満たすことが保証された完成品として発売されるのに対し、パソコンは店頭に並んだその時点でも山のような免責条項付きの半完成品である。誰も最終製品の機能や品質について責任を持たない。「このパソコンは、全体として、DVDプレイヤーとして正しく動作する」と、保証できる立場にある会社が存在しえない。だからこそパソコンは安いのだから悪い話ばかりではないのだが、この状況でパソコンが家電になることはありえないなと、昨日はしみじみと実感した。

週末に安いDVDプレイヤーを買ってくることにした。

2004.07.13

まだ夏バテではないけれど

暑くて睡眠不足のせいか、どうも頭がよく働かない。単純作業については、ぼんやりしながらでも何とかできるが、順序だてて理屈を積み重ねる作業が、全く進められなくなった。
頭を整理しようと思って、ここ数ヶ月間やってきた自分の研究ノートを読み返してみても、他人の書いたできの悪いレポートを添削させられるような感じで、面白くも何ともない。いや、そんなことは言ってられないのだが。

とりあえず、今日はエアコンをつけて早めに寝ることにする。

2004.07.12

ひまわり その4

露地植えにしたひまわりは残念ながらほぼ全滅。まず発芽率が低い。これは、芽が地上に出てくる前に虫に食われているせいのようだ。双葉のない茎だけが伸びてくることがある。もちろん、数日で消滅する。やっと出てきても、食害か病気になる。それに対して、鉢植えのほうは元気よく伸びている。

というわけで、昨日100円ショップに行きプラスチック製の特大植木鉢を買ってきて、手元にある種をさらに蒔いてみることにした。

使っているひまわりの種について、植える前のものや発芽直前の様子を観察していて気がついたが、栽培用ではなく飼料用として収穫しているため、花から種を取り外すときにかなり手荒に扱われているようだ。

ひまわりの種は、とがった側から根が出てくる。ここから伸びてくるものが、双葉をささえる茎と根になるので、収穫のときに種のこの部分が傷つくと、当然ながら発芽率は落ちる。そして、ここは、花とつながっていた部分でもあり収穫のときに傷つきやすい。絶対に発芽しないというわけではないが、先端が欠けているような種を蒔くのは避けたほうがよい。

根と茎を伸ばすことのできなかった種であっても死んでいるわけではないので、土の中で、双葉(になるはずの部分)の付け根の部分からひげ根を出している。しかし、双葉を地上に押し上げていく茎が成長しないので、地上で葉を開くことはなく、いずれそのまま枯れるしかない。理屈としては、そういう種でも地表ぎりぎりに蒔いて土をほとんどかけないようにすれば、地面にくっついた状態で双葉を開き、その上に通常の茎を伸ばすことはありうるだろう。

ところで、丸みのある側は少々欠けていても問題ない。

2004.07.11

カランコエ

カランコエが近所のスーパーで52円だったので、ひとつ購入した。色は、薄めの柿色と白のまだら。白い花は日照不足で発色が悪いだけで、本当は色が付くはずなのも知れない。これで8つめ。現在手元にあるのは、白、濃いオレンジ、薄いオレンジ、赤紫、ピンク、薄い黄色、白とピンクの絞り。店頭を見回すと、カランコエ以外にも松葉牡丹が3つで200円だったりと色々楽しそうなものがあったが、今回は見送り。

カランコエはベンケイソウ科、マダガスカル島原産の多肉植物で、非常にたくさんの種類があるらしいが、花屋で最も一般的なものはカランコエ・ブロッスフェルデイアナ(Kalanchoe blossfeldiana)である。たくさんの小さな花が上向きに咲く。日陰や乾燥に強く、半耐寒性(5℃)で育てやすい。色のバリエーションが豊富でプランターに寄せ植えにすると見栄えがよいので、最近は喫茶店やハンバーガーショップなどの入り口を飾るのによく使われている。挿し芽が成功しやすい花のひとつで、葉っぱ一枚を挿してもちゃんと葉の軸から根が出てくるほどなので、株が大きくなりすぎた場合は適当に切って整え、切れ端は挿してしまえば無駄にならない。

もっとも、増やし過ぎると置き場所に困ることになるが。園芸家最大の悩みは、植えているものが枯れることではなく、増えすぎて置き場所がなくなることだ。挿し芽で増やしすぎたベゴニアの場合、処理に困ったら食うべしという話もあるが、カランコエはどうだろうか?

2004.07.09

迷走する遊星

検索エンジンを使っていると、調べたいものとは全く別世界のものがしばしばひっかかるのが面白い。

トヨタのハイブリッドカー、プリウスの変速機構について調べるつもりで、「遊星歯車」「不思議遊星歯車」などの言葉を検索エンジンで探していると、なぜか、ウルトラセブンの幻の第12話「遊星より愛をこめて」についての詳しい情報サイトにたどりついてしまった。

その内容については、ここには書かない。興味深いのは、この欠番となってしまった事件について、実際の経緯とは別の事件の話と混同した説明をする人、故意に尾ひれをつけたり面白おかしく作文したりする人がネットのところどころにいたということ。都市伝説の生成過程のひとつかも知れない。

それにしても、くだんの作品は欠番にするには惜しい傑作だったようである。

2004.07.08

ひまわり その3

発芽テストのつもりで自宅前に最初に蒔いた種は、ある時期から急に葉が枯れ始めて心配していたのだが、昨日、近所の子供にむしられてしまった。見た目、枯れ草になりつつあったからだろうけど、なんでそんなことするかね? いや、子供はそういうものだ。玄関前の植木鉢にもちょっとしたイタズラをされた。ここは住宅地だし近所に幼稚園もあるし、仕方あるまい。本当に大事な鉢はベランダに置いている。

とにかく、また一粒、種のストックを水に漬けることにした。

なお、食害は、ちいさなバッタであることが判明。オルトランでも買ってくるか。

2004.07.07

梅雨のさなかに七夕

今日は7月7日。これが旧暦の7月7日であったなら、今は真夏の真っ盛りだから、夜中に星を眺めるというのもいいだろうが、現在のわが国の暦では梅雨の真っ盛りであって星をみることはできない可能性が高い。
明治維新のときに太陰暦から太陽暦に切り替えたのはいいとして、日本の一年の始まりをヨーロッパの2月にあわせていれば、こういうズレはもっと小さかったろう。しかし、それはそれで問題がある。

私は英語の月の呼び名になじめない。かつて転職活動中に、過去にやってきた自分の仕事を過去にやっていた説明していたとき、ある仕事の始まった月だったか終わった月だったかについて「8月」と言うつもりでうっかりOctoberと言ってしまい、しまったと思ったことがあった。なぜゆえに10月がOCTなのだ? OCTは8ではないか。
いや、2ヶ月ずれてしまった歴史的経緯は知っているし、私が何を言ったところでどうしようもないのだが。そしておそらく、私以外の誰か偉い人が言ったとしても、どうしようもあるまい。3時でも「おやつ(8番目)」だし、12時なのに「noon(9番目)」である。

ついでながら、うるう年の調整を2月末にやるのも、かつては1年の始まりが現在の3月に相当する月であり、現在の2月は「年末」に相当する月だったから。年末に辻褄を合わせるのは理にかなっている。

ともあれ、ヨーロッパの1月は日本でも1月にしておいたほうが都合はよかろう。もっとも、ユダヤ教もイスラム教も別の暦を使っているのだが。

フランス革命の時、新政府は、神話に基づいた月の呼び名をやめて独自の暦を作ったらしいが、メートル法とは違い結局定着はしなかった。また、ずっと時代を下って第一次世界大戦のあとには、曜日としてカウントしない日を年末に入れることによって曜日と一年間の日付の対応を固定し、どの年でも同じ月の同じ日は同じ曜日になるように定める、という提案がなされたそうだ。だが、そもそも一週間というものは聖書に由来しているものであり、それを人為的に操作することには宗教的な反発も強く、実現はしなかった。


基準を変更したのに変更前のルールを適用すると矛盾が起こる。しかし、「八夕」と書いて「たなばた」と読ませるわけにもいくまい。
日本は、明治維新のときに太陰暦から太陽暦に切り替えたが、特に大きな混乱はなかったらしいが、ヨーロッパでは太陽暦同士でも閏年の計算で国ごとに微妙にずれた暦をそろえるときに、ひと波乱あったそうだ。

2004.07.05

ひまわり その2

芽が出たばかりのヒマワリのひとつが、急にしおれてしまった。理由は虫食いである。ちょっと見た目には原因が分からなかったが、地面すれすれ、根元の部分の茎が半分近くかじり取られてしまっては、上に水分は届くまい。残念だけど、これは抜いて次の種を植えることにした。幸か不幸か、種は大量にある。

2004.07.04

冷蔵庫のサーモスタットが故障した

毎日、少なくとも1回は冷蔵庫のドアを開けるのに、昨日はたまたま丸一日使わなかった。
そして、今朝、冷蔵庫を空けたら中から異様に暖かい空気が流れてくる・・・

サーモスタットの動作不良で、かなりの時間止まっていたらしい。たいしたものは入っていないが、
モヤシがすっかりダメになっていた。冷凍庫は、まだ霜が残っていて、かろうじて零度前後を維持していた
らしいので、冷凍食品はたぶん大丈夫。冷凍庫の霜取りになっていいやもしれない。

温度調整つまみの接触不良だろうなと、少し回してみたらすぐにモーターが動作し始めたが、
そろそろ買い替え時か? 2年前にも同じことがあった。94年製というシールが貼ってあるので、もう修理用の部品もないだろうし。

2004.07.03

IT技術、次の主戦場は・・・

リクルート主催のIT技術者向け合同会社説明会に行った。
自動車メーカーとその系列会社、自動車用電装品のメーカーの出展がかなり目立つ。IT技術の次の主戦場は自動車だと、時々耳にするが確かにそうらしいなと思った。

会場を出ると、リクルートとは別の転職斡旋会社がビラを配っていた。

2004.07.02

Basic English 関連のおすすめの本

私は、Basic English そのものについては、そんなに深入りしたくない(それ自身を目的化するつもりはない)。あくまでも基礎的な英語力を身につけるための手段として、勉強するつもりである。今日は、私が、「これは役に立つ」と思った Basic English の本を取り上げたい。

自分で使える英語:ベーシック・イングリッシュ
牧 雅夫 (著)

Basic English の基本動詞16について、豊富な用例あり。この著者の前作『自信を持って英作文を教える』は、残念ながらちょっと説教臭いし「学者の独りよがり」という感じがしてあまり好きになれないが、『自分で使える英語』のほうは、基本動詞や前置詞の使い方について豊富な用例(1000件以上の例文)を用意した一般的な入門書として、ベーシック・イングリッシュに興味のない人にたいしても、強くお勧めできる良書だと思う。値段も安い。

英語基本動詞の豊かな世界―名詞との結合にみる意味の拡大
相沢 佳子 (著)

これは、ベーシック・イングリッシュそのものの本ではなく、「ベーシック・イングリッシュは、動詞をわずか16に制限するという極端な単純化をやったにもかかわらず、なぜ、かなり自然な英文を組み立てることが可能なのか?」という観点から、英語の構造について分析した本。非常に勉強になるので、強くお勧めしたい。

この本を読んだ後で英語のペーパーバックを読むと、「基本動詞+具体的な動作を意味する名詞」の組みあわせが、英文では非常にたくさん使われていることに気がつくことになる。
1930年代にベーシック・イングリッシュが作られたときとは異なり、現代はコンピュータを駆使した莫大なコーパス(サンプルとなる文章のデータベース)があり、これをもとにベーシック・イングリッシュを再評価してみると、実に合理的なものであったということが分かるそうだ。

同じ著者から、『ベーシック・イングリッシュ再考』という本も出ている。こちらのほうが先に出版された。ベーシック・イングリッシュの歴史的な経緯についての説明がある。

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